2023年2月20日 礼拝説教 「試練からの逃げ道」
「試練からの逃げ道」
創世記22章9節~14節
9節
神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
10節
そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
11節
そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、
12節
御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
13節
アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
14節
アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
私が少年の頃、プロレスはとても人気がありました。熱烈なファンの前で言うと気まずいに雰囲気になりますが、少年だった私の目から見ても、まともなスポーツには見えませんでした。反則を重ねる悪役がヒーローを追い詰めて観客を心配させましたが、もうダメかと思われると、ヒーローは奇跡的に力を回復し、悪役をやっつけて勝利しました。いわゆる八百長という物でした。
聖書によると、神様も八百長をやります。つまり、一人ひとりの耐えられる限界を見極めながら、ギリギリのところまで人間を追い詰めます。そうでもしないと人間は与えられた恵を当たり前に思い、いくら年をとっても問題解決能力のない、頼りない存在になります。試練を受けないまま力や地位を手に入れると、皆を不幸にするわがままな存在になります。しかし、新約聖書を読むと、神様が与える試練の種明かしが書いてあります。
「神は真実な方で・・・試練と共に・・・逃れる道をも備えていてくださいます。」試練を単に、偶然にやって来る不幸な出来事として捉えるなら、いずれは救いが来ると信じる根拠はありません。神様を信じるということは、自分が体験している嫌な事が、神様が許した限度内で起きたことであり、必ずセットになって、救いの道が用意されているという事実を知ることです。
それにしても、ここまで追い詰められると、読者としてアブラハムに同情して神様を恨みたくなります。「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」と素直に聞くイサクに対してアブラハムは「きっと神が備えてくださる。」と答え、その通りになります。しかし、それまでの経緯があまりにも痛々しく、読むのに耐えないほどです。「祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。」ここまで来ると神様が「それまで!」と言っても良さそうですが、何も言わずに黙って見ています。
「アブラハムが、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」そのギリギリの瞬間まで待ちます。刃物を取って振り上げたアブラハムの覚悟はできています。心の中では、息子イサクの命はもはやなく、それを奪ったのは父親である自分です。その瞬間、アブラハムの信仰が揺らがないと確かめた神様の声が響きます。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった。」
「もっと早く分かってくれよ!」と言いたくなるのは人間である私たちの気持ちです。「木の茂みに角をとられた雄羊を用意するなら、せめても、イサクを縛る前に気付かせて上げてくださいよ。」。人間をここまで追い詰める、このような神様は嫌だ。聖書のこの先の話を読みたくないと思うかもしれません。念のために言いますが神様は、信仰を極めた人間の代表としてアブラハムの模範で十分と認め、この先を読んでも、これ以上の試練を受ける人はいません。更に大きな試練を受けるのは人間ではなく、神様ご自身です。
アブラハムに「あなたの息子、あなたの独り子、あなたの愛する子」と言って追い詰める神様の心の中に、今度は自分を追い詰める計画が練られていました。後でわかることになりますが、この日の出来事の舞台となったこの山にも、重大な意味があります。「これは私の愛する子。」「神はその独り子を。」
次回はその話になります。
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