2023年2月13日 礼拝説教 「神はアブラハムを試された」

 2023213日 礼拝説教  

「神はアブラハムを試された」

創世記221節~8節

1節                    これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、

2節                    神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。

3節                    次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。

4節                    三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、

5節                    アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」

6節                    アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。

7節                    イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」

8節                    アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。

親にとって子供の命ほど大切なものはなく、子供の命が助かるためなら、自分の命も惜しいとは思いません。一生かけて貯めたお金でも、子供が必要とするなら、迷わずに全額譲るのが親の心です。「あなたの息子。あなたの独り子。あなたが愛している子。あなたに笑いを与えるその子、イサク。」

神様はアブラハムにとってイサクがどれほど大切な存在だったかを、十分に理解していました。この前置きは、次の言葉の残酷さを際立たせます。目に入れても痛くない、あなたのイサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」つまり、殺してその遺体を祭壇に載せ、火で焼きなさいという意味です。

従ったら祝福する、子供を与える、子孫を繁栄させると約束した神様。これまでも、かなり無理な要求を受けても、素直に従ってきたアブラハム。何十年も待ってから約束の子供が産まれたというのに、アブラハムを最後に襲うのは、このような残酷極まりない、とんでもないおちだったのでしょうか。神様はこのようにして人の心をもてあそぶ、気まま勝手なお方でしょうか。

時代背景を考えると、アブラハムに命じられたことはあり得ないことだったとは言えません。日本にも人柱伝説がありますが、歴史を数千年前まで遡ると、人身供養、つまり神々の怒りをなだめるために人の命を犠牲にする慣習は世界各地にありました。国が大きなピンチを迎えた時、王様が神々の気を引く最終手段として、自分の子供を殺すこともありました。二千年くらい前になると、かなり珍しくなりますが、中南米ではコロンブスの時代まで、何万人もの人が生贄として殺されました。神様がアブラハムに求めたのは、自分の信仰心が、周囲にいる野蛮な異教徒たちに負けていないと、証明することでした。

この話は「神はアブラハムを試された。」という言葉から始まります。「人を試すのはいけないことだ」と言って、反発する人もいますが、試したのは人間ではなく、神様だったので、文句のつけ様がありません。分厚い聖書を最後まで読むと、神様が子供を生贄にすることを要求するはずがないのは明らかなことです。酷な話に思えるかもしれませんが、この時の神様の目的は、先祖であるアブラハムを手本にして、これから生まれる子孫に信仰の本質を教えることでした。人に耐えられないほどの試練を与えない神様はアブラハムを深く信頼し、究極の試練を与えても耐える力があると判断したのです。

「そんなの嫌だよ。そのような神様とは関わりたくない。」このようにして反発するのも自然なことかもしれません。しかし、「神も仏もあるものか」と言いたくなる事が起きるのが人生で、人間に与えられた選択肢は、信仰を手放さないで心を高くするか、絶望に落ちて希望を捨てるかの二つしかありません。このような時、誰にもできるのは絶望して投げやりになる事であり、難しいのは自暴自棄になることなく、信じて祈り続ける事です。

父親を少しも疑わないイサクの質問にドキッとします。「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」その時、イサクに負けない素直な心で神様を信じていたのはアブラハムでした。「小羊はきっと神が備えてくださる。」理解に苦しむ、酷いことをされても、神様を信頼するアブラハムの心は少しも揺るぎませんでした。話の続きは次回になります。

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