2022年11月14日 礼拝説教 「アブラムは主を信じた」
2022年11月14日 礼拝説教
「アブラムは主を信じた」
創世記15章1節~6節
1節
これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
2節
アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」
3節
アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」
4節
見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
5節
主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
旧約聖書を読み進むと、数え切れないほどの儀式や生活についてのルールが出てきます。イエス様が生まれたころのユダヤ人は、このルールを徹底的に守ることが、とても大事なことだと考えました。守れない人や、ルールの存在も知らない、他民族の人たちをひどく軽蔑するほどでした。しかし、イエス様の弟子たちは、民族の壁を破り、生活習慣が違う人たちに聖書の言葉を伝えました。その時、弟子たちの間で、ユダヤ人と同じ規則を他民族の人たちにも守らせるべきかについて議論が起こりました。
弟子の一人だったパウロは、アブラムの物語を思い出して皆を説得しました。「最初に神様に義と認められた、つまり神様から喜ばれる正しい人だと認められたアブラムは、後からできた旧約聖書のルールについて何も知らなかった。アブラムはただ、神様を信じただけで義と認められたと書いてあるではないか。」これを根拠に、イエス様の弟子たちは皆、信じるだけで神様に喜ばれ、永遠の命をいただけると教えるようになりました。
子孫がカナンの地を全部受け取るという約束を受けたアブラムの心に、一つの大きな引っかかりがありました。アブラムとサライには子どもがいませんでした。以前は甥のロトに財産を継がせることも考えましたが、ロトは略奪隊から救出された後も、ソドムの街に住み続けていました。このまま死ぬと、血が繋がっていない召使のエリエゼルが継ぐことになります。このような状況の中で、何を約束されても嬉しいはずがありません。
神様はアブラムをテントの外に連れ出し、天の川がくっきりと見える、大小の星が輝く夜空を見上げさせて言いました。「できることなら星がいくつあるか、数えて見なさい。」どこから数え始めれば良いのかと迷うアブラムの耳にすかさず、次の言葉が聞こえてきました。「あなたの子孫はこのようになる。」何年も子宝に恵まれなかったアブラムに、疑う余地はいくらでもありました。しかし、神様に喜ばれたアブラムのここが違いました。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」
旧約聖書には、英雄と呼べるような人はいくらでもいます。彼らに比べると、アブラムにはこれといった実績はありません。しかし、不思議なことに聖書は、神様を信じたというだけなのに、アブラムこそ一番偉かったとまで言っています。それはアブラムが神様を信じたという単純な事実がすべての始まりであり、それがなければ、後の出来事は何一つ起こり得なかったからです。
疑う力にも大事な役割がありますが、人間にとってそれ以上に大切なのは信じる力です。疑い続ける人は騙されないで済むかもしれませんが、生きることの喜びを一つも体験することなく、暗い人生を送ることになります。何をやっても意味がないと思うのも各自の自由ですが、すべての事に意味がある信じた方が、はるかに良い人生へとつながって行きます。
新約聖書を読むとイエス様の言葉に出会います。「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか。」「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」毎朝の礼拝で聞く言葉は私たちに新たな信じる機会を提供してくれます。「何を言っているんだ」と言わず、「私も聖書の言葉にかけて見よう」と思うなら、想像もしなかった世界が目の前に広がって行きます。一人一人に信じる力が与えられるように願います。
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