2021年12月20日  クリスマス礼拝説教 「羊飼いのクリスマス」

                      20211220

クリスマス礼拝説教

羊飼いのクリスマス

ルカによる福音書2114

1節               そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。

2節               これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。

3節               人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。

4節               ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。

5節               身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。

6節               ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、

7節               初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

8節               その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。

9節               すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

10節           天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。

11節           今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。

12節           あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

13節           すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

14節           「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

英語の八月という言葉、「オーガスト」は初代ローマ皇帝「アウグストゥス」の名前に由来します。このアウグストゥスは戦乱の時代を終わらせ、地中海周辺は200年以上続く平和と繁栄の時代を迎えました。帝国内で道路の整備や公衆衛生の改善が進み、各地にアウグストゥスを祭る神殿が建てられました。アウグストゥス崇拝が盛んに行われ、皇帝を救い主として拝むのは、ローマ人に限ったことではありませんでした。

多神教のギリシャ人は、神様が一人増えたぐらいで目くじらを立てませんでしたが、ユダヤ人の間で、人に過ぎない皇帝が神として崇められるのは許せないことでした。ルカのクリスマス物語は、皇帝アウグストゥスが命じる住民登録から始まりますが、その結果として行われたのはユダヤ人に耐えがたい、外国の政府による税金の徴収でした。

とは言うものの、この時、ナザレを出てベツレヘムに向かったヨセフが恐れていたのはローマ人ではなく、同胞のユダヤ人でした。昨年のクリスマス礼拝で、マタイのクリスマス物語を読みました。マリアの妊娠に身に覚えがないヨセフは、世間に目立たないように、マリアとの婚約を解消しようとしました。しかし、夢の中で「マリアを迎え入れなさい。胎の子は聖霊によって宿った。」というお告げを受けたヨセフはマリアを妻として迎え入れました。対照的に、ルカのクリスマス物語を読むと、ベツレヘムに旅立った二人はまだ夫婦になっていませんでした。マリアはヨセフの「いいなずけ」、つまり婚約者でした。

マタイはヨセフの善意に満ちた行動を強調しますが、ルカは臨月を迎える娘を旅に連れ出す、無茶な男として描いています。出かけた表向きの理由は、住民登録を済ませにベツレヘムへ行くことでした。しかし、本音を言うと、ヨセフはマリアの出産が近づくに従って冷たくなるナザレの住民の視線を怖がっていました。「この険悪なムードの中でマリアを出産させるのは心配だ。私の立場も怪しい。危険を察知したヨセフは考えました。「連れて行ける場所はないだろうか。そうだ、住民登録のためだと言って、本家の親戚がいるベツレヘムに行けば何とかなる。」

数日後、疲れ切った二人が夕暮れ時のベツレヘムに着いた頃、マリアはすでに産気づいていました。罪の子を宿した娘と、父親でもないのに、駆け落ちしてまでかばう間抜けな男。残念なことに悪い噂が先回りしていました。すぐに対処して欲しいと焦るヨセフは、頼りにしていた親戚に助けを求めましたが、だれからも相手にされませんでした。身内に見放されたヨセフは宿屋の戸を叩きましたが、厄介なカップルに関わりたくない支配人は満室だと言って断りました。

しかし、マリアの陣痛に気づき、戸口で出産されても困ると考えた支配人は二人を裏手にある家畜小屋に案内しました。わらの上に寝かされたマリアは間もなく男の子を産みました。感染リスクが高い不衛生な場所で、助産師の助けを受けることもなく、子供が生まれました。用意してきた布があったのでそれにくるみ、ベビーベッド代わりに、家畜の餌が入っている飼い葉桶に寝かせました。出産は一族全員で喜び合う幸せな時です。しかし、この日に限ってだれからも祝いの言葉も、祝いの品もありませんでした。新生児と家畜の鳴き声が入り混じる最初のクリスマスは、とても暗い、とても寂しい、とても心細いものでした。

この有様に我慢できなかったのは、誕生の知らせをマリアとヨセフに伝えた、ガブリエルを初めとする天使たちでした。皆を代表してガブリエルは神様に訴えました。「あまりにも可哀そうじゃないですか。救い主を産む務めを与えながら、暗くて臭い家畜小屋の隅で出産させるとは。お祝いしてあげる人が一人もいない。お願いです。ローマとエルサレムの空に花火を上げさせてください。それがだめなら、責めても、家畜小屋の前で一曲、お祝いの歌を歌わせてください。」

神様は答えました。「そのようなことをしてはいけない。皇帝アウグストゥスのような人が生まれたと思われても困る。救い主は、誰よりも身分の低い、貧しい家に生まれ、皆から無視されて寂しい思いをして育つのだ。アウグストゥスと違って社会的に立場の弱い人、お金に困っている人、身分の低い人に寄り添い、希望の光をもたらす救い主になるのだ。」

それを聞いたガブリエルにひらめきが生まれました。「今、ベツレヘム近くの野原に、正にそのような人たちがいます。野宿をして羊の番をしています。お願いです。彼らに救い主の誕生を伝えさせてください。」しばらく、沈黙が続いた後、神様は口を開きました。「分かった。行ってこい。でも、あまり派手なことをするなよ。ベツレヘムの街は静まり返っている。寝ている住民を起こさないようにね。」

旧約聖書のおもだった人物は皆と言ってよいほど、羊を飼っていました。奴隷生活からユダヤ人を解放したモーセは、羊の番をしていた時に神様と出会いました。ベツレヘムで生まれたダビデ大王も、少年時代は羊の番をさせられ、後にその体験を活かして敵を倒し、歌の作詞もしました。羊飼いは自分の土地を持っていませんでした。誰の土地でもない原野で、草が生えている場所を探し、羊の群れを放牧させる人たちでした。

ユダヤ人が一番尊敬する先祖たちは皆、羊飼いでした。しかし、裕福になるに従って土地を手に入れ、作物を作るようになりました。更に、街を作り、そこで生活する内に価値観が変わりました。いつの間にか、羊飼いに臭い、汚い、のイメージが付き、厳しくなったユダヤ教の戒律を守れない人たちとして、蔑まれるようになりました。しかし、ユダヤ民族の初期の頃から、神様の声に耳を傾け、素直に従ったのは家畜の世話をする人たちでした。天使たちはモーセやダビデの昔の姿を思い出しながら、こっそりと、気づかれないように、焚火を囲む羊飼いたちに近づきました。

突然、想像もできないほど明るい、イルミネーションのような光が周囲を照らしました。電気のない時代に生きる羊飼いたちは、超自然的な物に出くわしたと気づき、神殿で天使に声をかけられたザカリアと同じように、恐怖に陥りました。臭くて、汚くて、戒律を守れない、みすぼらしい恰好をした自分たちが、このように輝かしい、きよい光に触れた以上は、もはや命がないと覚悟を決めました。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」ガブリエルはザカリアとマリアに言ったのと同じように「恐れるな。」と言いました。神様が近づいて来られたのは、滅ぼすためでも、罰を与えるためでもなく、全人類に大きな喜びを告げるためでした。人類を代表してその恵を最初に知らされたのは、家畜や土の匂いが染みついた服に身を包む、羊飼いたちでした。

ザカリアとマリアに証拠となる印が与えられたように、羊飼いたちにも印が与えられました。「ベツレヘムに行けば、布にくるまって飼い葉桶の中で寝ている乳飲み子が見つかる。」口を開く余裕もなかった彼らは、印を求めた訳ではありません。しかし、与えられた印に拍子抜けしました。「今、ベツレヘムに行けば、救い主歓迎大パレードをやっています。」と言われたら納得が行くでしょう。しかし、「飼い葉桶に寝ている乳飲み子!? 何ですか、それは?

それまで我慢していた天使の大群は感極まって大声で歌い出しました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」ラテン語の歌詞は、皆様も聞き覚えがある、あのクリスマス・ソングのサビの部分です。「グロリア・イン・エクセルシス・デオ」。人間には悲惨としか思えない状況のもとに、一人の赤ん坊が生まれました。しかし、目に見えない世界は、人類を救う神の業を喜び祝う天使たちの声に沸き返っていました。

天使の姿はマリアとヨセフには見られませんでした。生まれて来た赤ん坊の耳にも彼らの歌は聞こえませんでした。ローマに行っても、エルサレムに行っても、その夜の出来事を知る人は誰もいませんでした。ベツレヘムの住民はその日の夕方に舞い込んできた、あのみじめな二人の噂をしましたが、その後に起きたことについては、何も知りませんでした。

クリスマスは誰のためにあるのでしょうか。もちろん、全人類のためにあります。しかし、クリスマスの目に見えない力に、動かされる心もあれば、無関心な心もあります。汚くて臭い家畜小屋は自分と縁のない場所だと思うかもしれません。しかし、だれにも見せない、自分の心を正直に見つめるなら、きれいな思いばかり詰まっているとは言えません。自分にしかわからない、汚くて臭い部分がいくらでもあります。

クリスマスの本当の恵みは、サンタクロースやケーキやイルミネーションにではなく、家畜小屋に生まれたイエス様が、人に見せられないほどすさんだ心に入り、クリスマスの希望と喜びを届けてくださることにあります。幸せなこともたくさんあった一年だったと思いますが、思い通りに過ごせないこともあったでしょう。それらをすべて乗り越え、新しい年に期待を膨らませながら、心温まるクリスマスと、良いお正月を迎えられることを願います。心も体も新たにして、冬休み明けの学校生活を始められるように祈ります。

Comments

Popular posts from this blog

2019年3月8日 終業礼拝 「心のメンテナンス」

2024年2月26日 礼拝説教 「同行してくださる神」

2023年7月10日 礼拝説教 「人の心を固くする神」