2022年1月11日 始業礼拝説教 「クリスマスは終わった」

 2022111日 始業礼拝説教

クリスマスは終わった

ルカによる福音書21521

15節           天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。

16節           そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。

17節           その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。

18節           聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。

19節           しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。

20節           羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

21節           八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

冬の一番厳しい時期はこれからで、山奥にいるクマやコウモリは冬眠していますが、クリスマスもお正月も終わりました。人間たちは日常生活に戻り、雪や寒さに耐えながら、日々の務めに励んでいます。3週間前のクリスマス礼拝は、救い主の誕生を知らせる天使たちの話で終わりましたが、「グロリア・イン・エクセルシス・デオ」と歌った大群は長居することなく、アッという間に姿を消しました。今日は、いつもと変わらない様子に戻った野原に残された羊飼いの話です。あっけに取られた羊飼いたちは、何が起きたのかを理解しようとしましたが、この不思議過ぎる体験を飲み込むのは、容易なことではありませんでした。

昔は私にもありましたが、十代の皆様は神秘的な思いや、印象深い体験をして深く感動することがあると思います。このような時は、感受性が強い青少年ほど有頂天になりやすいですが、時間がたって現実に戻ると、逆に落ち込むこともあります。天使が去った後の羊飼いたちの気持ちもまちまちでした。呆然と立っている羊飼いもいれば、「不思議なこともあるなあ。」と言って仕事に戻る羊飼いもいました。しかし、中には、その時の思いを行動に移さないと我慢ができない羊飼いもいました。

一人が「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」と言い出すと、連動するように仲間が増え、集団になってベツレヘムの街に向かいました。羊飼いたちはベツレヘムの薄暗い道を走りながら探しました。「飼い葉桶に寝ている赤ん坊はいないか。飼い葉桶なら家畜小屋しかないだろう。」動物がつながれている場所を一つ一つ探しまわる内に、生まれたばかりの赤ん坊の泣き声が聞こえてきました。その声の方向に向かうと、不安そうなカップル、マリアとヨセフのそばに飼い葉桶があり、のぞいて見ると、小さな赤ん坊が寝ていました。

「どうしてまた、このような所に赤ちゃんを寝かせるのですか。」と聞きたくなるような場面ですが、羊飼いたちは別なことで頭がいっぱいでした。「天使たちが話した通りだ。夢のようだったけど、夢じゃなかった。あの天使たちの歌声は幻聴でも幻覚でもなかった。本当にあったことだ。」ベツレヘムの町民は羊飼いたちの話を「不思議に思った」と書いていますが、これと言った行動を取りませんでした。せめても、家畜小屋から人が住む家に移してくれたと思いたいですが、飼い葉桶に寝ているあの赤ん坊が救い主だという意識が芽生えることはなかったようです。

マリアには幸せを味わう余裕はありませんでした。実家があるナザレで、天使が来て妊娠を告げられたと言っても、不思議な夢を見たヨセフ以外は誰も信じてくれませんでした。親戚から一族の恥だと罵られ、親しかった友人から無視されました。ヨセフに連れられ、逃げるようにして実家を離れ、恐怖に怯えながら家畜のそばで初めての出産を迎えました。ベツレヘムの村人の冷たい視線を浴びながら、生まれて来た子をどのように育てたらの良いのか、見当もつきませんでした。

信仰も希望も失いかけそうなマリアのもとにやって来たのはやかましい、品のかけらもない羊飼いの集団でした。飼い葉桶に眠る赤ん坊を見てひどく興奮している様子でしたが、出産を終えて疲れ切ったマリアには迷惑な存在でした。ただ、早口であれこれとしゃべる内容を聞いている内に、「天使の大群を見た。救い主が生まれた。」などと、心に響く言葉が聞こえて来ました。しばらくすると、羊飼いたちは野性的な大声で讃美しながら、「近所迷惑だ」と言って怒る村人の声を気にする様子もなく、羊が待つ野原に戻って行きました。

村の長老やご婦人たちの歓迎を受けた方が助かるのは言うまでもありません。しかし、羊飼いたちの言葉は朝を迎えたマリアの心の支えとなり、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」と書いています。絶望的に思える状況の背後に神様の偉大なご計画があるという確信を新たにし、悪条件のもとで新生児の世話をする日々の現実に立ち向かいました。

ユダヤ社会で男の子が生まれると、産後八日目に済ませなければならない、大事な儀式がありました。現在もユダヤ社会とイスラム社会で行われる「割礼」というもので、男の子の性器の先端にある皮膚を切り取る、ちょっとグロテスクなものです。男性諸君にその意味はよく分かると思いますが、現代医学でも、清潔を保つために役立つという考えもあります。専門家の手を借りなければならない、感染リスクを伴う儀式でしたが、これを済ませないと男性として、ユダヤ社会の一員になることはできませんでした。

頭を下げて探し回ったヨセフはやってくれる人を見つけ、赤ん坊は無事にユダヤ人の仲間として受け入れられました。この日に名前を授かることになっていましたが、ザカリアとエリサベトと同じように、マリアとヨセフに迷いはありませんでした。天使に告げられた通りに「イエス」と付けました。

新年を迎えたからと言って、特別に何かがある訳ではありません。これまでの総決算となる共通テストを迎える三年生はとても緊張していると思いますが、今まで通りに生活が続き、退屈な日常を苦にする生徒もいるかと思います。平穏な毎日が続くと人は非日常を求める不思議な存在ですが、何事もなく過ごせるのはとても幸せなことです。特別な何かが待っていると確信させる体験をしたり、大きな夢を抱いたりした時の高揚感も大事です。しかし、日常的にしなければならないのは、マリアと同じように「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らす」ことです。

日々の勉強や練習にロマンを感じないかもしれません。しかし、これからの一年の価値はその積み重ねの合計で決まります。体に気を付けながら冬を乗り越え、さわやかな春を迎えてください。2022年が皆様にとって飛躍的に成長する、有意義な年となりますように。

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