2021年11月15日 礼拝説教 「神にできないことは何一つない」

 20211115日 礼拝説教

神にできないことは何一つない

ルカによる福音書12637

26節             六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。

27節             ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。

28節             天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

29節             マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

30節             すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。

31節             あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。

32節             その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。

33節             彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

34節             マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」

35節             天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。

36節             あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。

37節             神にできないことは何一つない。」

38節             マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

キリスト教系の学校には、カトリック系とプロテスタント系があります。見分ける方法の一つは、マリア像があるかないかです。あるのはカトリック系で、ないのはプロテスタント系です。どちらの教会に行っても「主の祈り」を唱えますが、「アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。」から始まる、「聖母マリアへの祈り」を唱えるのはカトリックの信徒です。ラテン語の「アヴェ・マリア」は、今日読んだ天使ガブリエルの言葉、「おめでとう、マリア」に由来する言葉です。

 聖書だけではなく、イスラム教の経典、コーランも、イエス様が処女マリアから生まれたと教えています。コーランに登場する唯一の女性はイエスの母マリアで、イスラム教では理想の女性として描かれています。対照的にプロテスタントの教会で「イエス様」という言い方をしますが、「マリア様」とはあまり言いません。他の人間と同じように罪がある普通の女性だったと考えているからで、祈りの対象にしないのもそのためです。

 とは言っても、神様の言葉を信じて素直に従ったマリアの姿勢は、信仰を持つ人のお手本そのものです。マリアの言葉、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」はビートルズの「レット・イット・ビー」の歌詞の基になっていますが、古代中東の社会情勢を考えると、強い覚悟と勇気がなければ言えないことでした。今のイスラム原理主義の国を思い起こすとよく分かりますが、父親不明の子を宿すのは女性にとってとても危険なことでした。自分にも、家族にも耐えがたい恥をもたらすだけではなく、汚された村を清めようと、集団になって渦中の女性に石をぶつけて殺すこともありました。

 聖書の神様は人間界で新しいことを始めようとすると、特定の人にとても無理なことを要求する傾向があります。洪水で人類を滅ぼそうと決めた時、ノアに巨大な船を造るように命じました。イスラエル民族を育て、アブラハムをその祖先にしようと決めた時、住み慣れた故郷を離れ、未知の国に出かけるように命じました。奴隷になっていたアブラハムの子孫を解放しようと決めた時、古代最強の国、エジプトの宮廷にモーセを遣わし、神様からの挑戦状を王様に突きつけるように命じました。

 天使ガブリエルが来て出産の予告をしたところまでは一緒ですが、マリアとザカリアに告げられた言葉に大きな違いがあります。産む時期を逃した夫婦が子どもを授かるという、ちょっと無理すればあり得るレベルの話ではなく、男性と何の接触もない娘さんが妊娠するという、完全にぶっとんだ話です。

 「バカバカしい。こんなおとぎ話に付き合っていられるか。」そう思っても無理もないでしょう。しかし、天使ガブリエルの説明は単純明快なものです。「神にできないことは何一つない。」マリアはこの一言で納得します。可能に見えることにしか挑戦しない限り、信仰はいりません。しかし、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」と言われたらどうでしょうか。東奥義塾の歩みを見ても、私たちが不可能と思われることを信じた人たちが築いた土台に立たされていることに気づかされます。一人一人の中に「お言葉どおり、この身に成りますように。」と言える信仰が育つことを願います。

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