2021年7月19日 終業礼拝 「彼らをお赦しください」

2021719日 終業礼拝

「彼らをお赦しください」

ルカによる福音書232634

26節             人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。

27節             民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。

28節             イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。

29節             人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。

30節             そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。

31節             『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」

32節             ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。

33節             「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。

34節             〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。

ローマの経済を根底から支えていたのは、人口の2、3割を占める、戦争に負けて外国から連れて来られた奴隷たちでした。奴隷が反乱を起こすと市民生活が崩壊するので、ローマ軍はあらゆる反抗を恐怖で抑え込み、その極みは十字架の刑でした。奴隷が主人を殺すと、殺された主人が所有する奴隷の全員が十字架の刑に処せられるという法律がありました。ネロ皇帝の時代に元老院の一人が奴隷に殺害され、女性や子供を含む400人の奴隷が容赦なく十字架に付けられました。ローマ市民の多くは恩赦を求めましたが、法律を曲げる訳には行かないと判断したネロ皇帝は軍隊を送り出し、押し寄せる市民を処刑の場所から追い払いました。

「十字架」と言うと時代劇に見られる「はりつけ」のイメージがわくかもしれません。しかし、ここに描かれている「十字架の刑」は比べ物にならないほど残酷な物でした。まずは血だらけになるまで、骨や金属を埋め込んだ鞭で全身を打ち、十字架として組まれる角材を背負わせ、処刑の場に連れて行きました。槍で刺し殺される江戸時代の「はりつけ」と違って、手足を釘付けにして十字架につるしました。死ぬまで1日から3日間かかり、呼吸困難になって窒息死するまで全裸を晒し、飛んで来る猛禽類は体を生きたまま食いちぎりました。

十字架に付けられる人は暴れることが多く、死刑を執行する兵隊を激しく呪いました。十字架に付けられたユダヤ人の多くは愛国戦士で、神の奇跡によるローマからの解放を信じていたので、ローマ皇帝を侮辱する言葉を吐き、ローマ帝国に神からの天罰が下ると叫びながら死んで行きました。対照的にイエス様の場合、十字架の刑から守ろうとしたのはむしろローマ総督の方で、死に追いやったのは同国民のユダヤ人でした。

イエス様を支持する巡礼者たちが神殿付近に集まる時刻になると、裁判はすでに終わり、イエス様は正に処刑の場に連れて行かれるところでした。ローマ軍に立ち向かおうとするなら、命がないと知っていた男たちは手も足も出ませんでした。処刑を止めることができないと知りながら行動を起こしたのはイエス様を支持する女性たちでした。逮捕される心配はないと知っていた彼女たちは泣きわめき、大声でイエス様の無残な姿を嘆きました。その時、バラバの釈放を叫び、ナザレのイエスを拒んだユダヤ人たちが失ったのは平和を手にする機会であり、民族として木っ端みじんにされる結末へと向かい始めたのはこの時でした。

それを見通したイエス様は二つの印象深い言葉を口にしました。まずは泣きわめく女性たちに言いました。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。」

次はローマ兵に十字架に付けられ、それを見てあざ笑うユダヤ人たちを見下ろした時の言葉です。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」苦しむ庶民のために愛と奉仕の生涯を送ったイエス様に起きたこのできごとは人類史上、最大の悲劇であり、最大の裏切りでした。これは当然ながら敵を呪い、裏切った味方を恨む言葉を吐き捨てるべき時であり、それまで生きて来た人間たちは皆、そのようにしました。

イエス様の教えを、同じ時代に生きていた宗教家や哲学者と比べる研究を進めてきた学者たちがいます。その結果、当時は似たようなことを教えていた人たちが大勢いたことが知られています。しかし、イエス様だけが教えていたこともありました。その代表的なものは「敵を愛しなさい。」という教えでした。最初に聞いた人たちは耳を疑いました。愛すべきなのは親であり、兄弟であり、師匠であり、同胞です。悪人や敵に対する正しい態度は、心の底から憎むことです。「敵を愛す」なんて、とんでもない教えでした。しかし、イエス様は有言実行のお方であり、十字架に付けられた人が絶対に言わないことを言いました。「父よ。」つまり、「神様。」、「彼らをお赦しください。」

「私たちの罪をゆるしてください。私たちも、私たちに罪を犯した人をゆるします。」このように祈るように弟子たちに教えたイエス様は、十字架という究極の場にいながら、自らこの祈りをささげました。すべての罪が裁かれないと平和が来ないのであれば、人類は滅亡するまで争い合う運命を背負うことになるでしょう。争いや戦争が絶えない世の中に希望を提供するのはこの祈りです。

四月から読み続けてきた受難物語を、終わらない内に夏休みを迎えることになりました。イエス様が十字架にくぎ付けられたまま、夏休みを過ごし、秋になってその結末を迎えることになります。何もかも中止になった昨年と違って、学校のリーダーたちは今年、知恵を振り絞ってコロナが続く中でもできることを考え出し、世の中の暗い状況とは対照的な、活気のある明るい学校生活を可能にしてくれました。特に、先週末の二日間、今までにない形で義塾祭を成功させてくれた生徒会を初めとする、生徒の皆様に特別な感謝の言葉を送りたいと思います。

今までの自分にはできなかった何かの目標を立て、何かの責任を引き受け、何かの挑戦に挑みながら、これからの1か月を過ごしてください。人に迷惑をかける行為や、自己破壊的な結果を生む行動を厳に慎み、生きていて良かったと確信させる何かを掴むようにしてください。824日に、皆様の日焼けした、健康そうな顔に再会できることを楽しみにしています。気を付けながら、元気にお過ごしください。

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