2021年5月24日 礼拝説教 「ゲッセマネの園」

 

20215月24日 礼拝説教

「ゲッセマネの園」

ルカによる福音書2239~46節

39節          イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。

40節          いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。

41節          そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。

42節          「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」

43節          すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。

44節          イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。

45節          イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。

46節          イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

最後の晩餐が終わりました。弟子たちと一緒に外に出たイエス様はユダの裏切りに気がついていました。昼間は神殿の境内を埋め尽くす巡礼者たちに守られていたイエス様は夜になると孤立無援になり、身を守る方法はただ一つ、居場所を気づかれないようにすることでした。しかし、この時ばかりは、間近に迫る逮捕を回避しようとする努力は見られませんでした。いつものように、いつもの場所、エルサレムのすぐ外にあるオリーブ畑、ゲッセマネの園に向かいました。

この日の四日前に神殿の境内から商人たちを追い出したものの、武装していない弟子たちにはそれ以上のことができませんでした。神殿そのものは守衛たちに守られ、アントニア要塞に陣取っているローマ兵もそのままでした。クーデターを狙っていたならそれは不発に終わり、張本人、ナザレのイエスの運命は決まったも同然でした。残された選択肢は、暗闇に紛れてエルサレムから撤退するか、そのまま残って逮捕されるかの二つでした。

イエス様がこの時に意識していたのはある旧約聖書の言葉でした。「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた…屠り場に引かれる小羊のように彼は口を開かなかった…捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた…彼は自らを償いの献げ物とした。」(イザヤ書53章)新しい時代が来る前にこの予言が成就される必要があり、イエス様は「捕らえられ、裁きを受け、命を取られる」役割を引き受けるのが自分だと信じていました。

マタイによる福音書を読むと弟子たちに声をかけ、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」と言いました。それから逮捕の瞬間をじっと待ちながら祈り続けました。「父よ、御心なら、この杯(つまりこの苦難)をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」これは辛い場面に立ち向かう多くの信徒たちが模範としてきた祈りですが、この時のイエス様はひどく怯え、できることなら、この役から降りたいと願っていました。

この直後に逮捕されたので、これはイエス様が自由の身として取った最後の行動でした。ナザレの村にいる家族のもとに帰る決心をするなら今でした。安全な場所を求めてエルサレムを去るなら今でした。武装蜂起の道を拒んだ以上は、それも当然の選択だったと言えたでしょう。しかし、「神の国」という理想を語りながら、多くの人の心に希望を与え続けたイエス様にそのようなことはできませんでした。心の弱さを感じるとひたすら祈ることを習慣として来たイエス様はこの時、「苦しみもだえ、いよいよ切に祈り、汗が血の滴るように地面に落ちた」と書いてあります。最悪の展開が迫り来る中、その場を離れることなく、じっとしていました。祈り続けるイエス様の心に、襲い掛かろうとする悲劇と屈辱に耐える力が与えられました。

人間社会は常に英雄、またヒーローを求めます。しかし、ヒーローは恰好の良い存在とは限りません。真のヒーローは誰もが逃げようとする場面から逃げない人なので、権力者の暴力の前に負けたかに見えることもあります。誰もが競って軽い荷物を選ぼうとする時に、自ら進んで一番重い荷物を背負うので、荷が重すぎて倒れることもあります。人から辱めを受けると知りながら隠れようとしない人なので、社会人としての評判を失うこともあります。みじめな思いをしても正しいと信じることを貫き通してブレない人なので、容量が悪いと言われ、世間に軽蔑されることもあります。

しかし、後世の目は徐々に変わり、嘲りの対象となっていたその人がいつの間にか、真のヒーローとして評価するようになり、英雄伝説が生まれることもあります。ナザレのイエスはヒーローを通り越して、神として崇められるようになりました。讃美歌21にはありませんが、聖歌という讃美歌集の中にイエス様を信じる人の言葉として、次の歌詞があります。「したいまつる主の、み招きある今、十字架担い行かん、愛する主の後を。血潮混じる汗、流し祈る主の、ゲッセマネにも行かん、愛する主の後を。いずくまでも行かん、愛する主の後を。」

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