2021年4月8日 入学式 「世を裁くためではなく、世が救われるため」
2021年4月8日 入学式
「世を裁くためではなく、世が救われるため」
ヨハネによる福音書3章16、17節
16節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
17節 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
十字架、ステンドグラス、パイプオルガン。入学式の会場に入った時、皆様の目に飛び込んだのは、キリスト教の代表的な装飾品や楽器でした。しかし、初代の教会には、このような高価な物はなく、人の心を引き付けたのは、聖書が語る「福音」と呼ばれる言葉だけでした。阿部宗教主事が先ほど読んでくださったのは、宗教改革者、マルチン・ルターが「聖書の神髄、福音の縮小版」と呼んだ、キリスト教の要約文とも言える言葉です。
「神は世を愛された。」それはどういう意味でしょうか。「世」という言葉を自分の名前に置き換えるとよくわかります。「神は、その独り子をお与えになったほどに太郎を愛された。それは太郎が滅びないで、永遠の命を得るためである。神の独り子が遣わされたのは花子を裁くためではなく、花子が救われるためである。」
新入生の皆様は裁判所から「裁き」を受けたことはないと思いますが、これまでの学校生活を振り返ると、数え切れないほどの「裁き」を受けてきたと思います。成績通知表には「できる」とか「がんばろう」などと、曖昧な言葉で記載されていたかもしれませんが、結局は権威がある誰かから「良い」、「悪い」、「ふつう」などと、評価を受けたことになります。その評価は、時には罰のように感じることもあれば、人生の分かれ道になることもありました。
人間社会に価値観がある以上、それに合う物には高い評価、合わない物には低い評価が付きます。「裁き」を受けた時の気持ちは愉快なものとは限りませんが、社会の恩恵を受けて生きている以上はやむを得ないことです。建築基準の適用にも一種の裁きがあります。建築家の仕事に厳しい評価が求められるからこそ、入学式の途中に礼拝堂の天井が落ちてくる心配もなければ、登校中に渡る橋が落下する恐れもありません。
東奥義塾も学校なので、学業成績に優劣があり、卒業を目指すなら定められた基準をクリアしなければなりません。しかし、礼拝堂の正面にある十字架が示しているは、この東奥義塾に、評価を下す世の中とは違う、「裁かれない」世界があり、「これほどまでに」私たちを愛してくださった神様が存在していることです。
キリスト教教育はこれを前提に、生徒が個人として持つ価値を徹底的に追及します。入学するお一人お一人は、天と地を造られた全能者に「これほどまでに愛されたので」、私たち教員は生徒を誰一人として粗末にする訳には行きません。しかし、そもそも、太郎も、花子も、裁かれないで救われる必要があるのは何故でしょうか。
私たちは自分を赦せないと思ったり、他人への恨みが心を蝕んだりすることがよくあります。人の心を暗闇に追い込む最大の原因となるのはこのような自己嫌悪と、他者への恨みです。福音は私たちに、その二つの災いからの救いを提供してくださいます。滅びないで救われるのは、自分こそ赦された者であると確信し、人を赦すことを自分の務めとすることができる人間です。キリスト教の代表的な祈りを際立たせるのは次の言葉です。「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」
多くの信徒が日課としてこの言葉を唱えるのは、赦す生き方が如何に困難で、心の鍛錬を必要とするものかを物語っています。しかし、毎日、晴れやかな気持ちで朝夕を迎える秘訣はここにあります。
出発点は愛されていることを知ることで、成長過程が赦しを学ぶことなら、キリスト教教育の目標は永遠の命を知ることです。今週の日曜日はイースターとも呼ばれる復活祭でした。キリスト教は復活の信仰であり、永遠の命はつまり、復活の命です。人は生きていくなかで一度や二度は必ず、絶望感に襲われて「もう、これで終わった」と思う局面に出会うことがあります。しかし、永遠の命を持つ人に「終わり」というものはありません。人間が終わりだと思うことはすべて、神様の働きの新たな始まりだからです。
先月、中学校の卒業式を迎えた皆様は、限りある中学校生活に終止符を打ち、一つの「終わり」を迎えました。いろいろな意味で、皆様は中学生という自分に対して、死のようなものを体験しました。いくらなつかしく思っても、もはや、中学生として過ごしたあの日々に、二度と戻ることはできません。
しかし今日は、高校生である新しい自分として復活する日です。昨年まで、仮に嫌な思いをする事があったとしても、東奥義塾に来てまで、それを引きずらないようにしてください。中学校時代に自慢していたことが高校生になった今、これまでのように通用するとは限りません。新しい制服を着て、新しい出発点を迎えたので、これまでとは違う世界に生きる、違う可能性を持つ、新しくなった存在として生きてください。これまで出会ったことのない、今までとは違う自分を発見しながら、更に成長する喜びを東奥義塾で味わってください。
新入生の皆様。ご入学おめでとうございます。冬が去り、雪がとけ、東奥義塾の象徴の一つになった人工芝のグラウンドは、青々とした姿を現し、元気に走り回る新入生に踏まれるのを待ちわびています。間もなく、校舎を囲むリンゴの木に花が咲き乱れ、明日からは毎日この礼拝堂で、全校生徒と顔を合わせることになります。教室は新しい学びに取り組む生徒の熱気に包まれ、広い体育館に新一年生の声がこだまするようになります。早くこの環境を好きになってください。心に大きな希望を与える目標に照準を当て、力を出し切ってください。21世紀の世界で、力を発揮できる人間になってください。
保護者の皆様。本当におめでとうございます。大事なご子息、ご息女の教育を私たちにお委ね下さり、心から感謝申し上げます。人類は昨年から、予想もしなかった困難に立ち向かい、安心して生活できる場所を確保するのが一段と難しくなりました。私たちはそのなかで、学校に通う、お一人お一人を守りながら、厳しさを増した新しい時代の求めに応え、21世紀が求めるスキルが身に付く環境を整えるように、精一杯の努力してまいりました。年々高くなる高度技術社会のハードルにおじけることなく、立派に活躍できる力を身に付けて卒業できるように、どうか、私たちと手を取り合って下さい。よろしく、お願い申し上げます。
御来賓の皆様。ご多用のなか、新一年生の門出にご列席いただき、誠にありがとうございます。ここにいる新一年生は、新しい世の中で津軽が、そして日本が一目置かれる存在として輝き続けるよう、大事な役割を担う運命を背負っています。落胆することなく、幸せに通じる道から外れることのないように導くのは、大人である私たちの厳粛な勤めです。これから彼ら、彼女らの成長の過程を暖かく見守り、機会ある度にお励ましの言葉を下さるよう、お願い申し上げます。
新入生のお一人お一人が三年後、東奥義塾の教育に裏付けられ、決して変わることのない真理をしっかりと心に刻み、新しい時代の勝利者として、必要な知識と技能を身に付け、このキャンパスから力強く飛び立つことと固く信じ、式辞といたします。
2021年4月8日
東奥義塾高等学校
塾長 コルドウェル ジョン
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