20221年1月12日 始業礼拝「地主か小作人か」

 

2021112日 始業礼拝

「地主か小作人か」

ルカによる福音書20919

9節                  イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。

10節             収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。

11節             そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。

12節             更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。

13節             そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』

14節             農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』

15節             そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。

16節             戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。

17節             イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、

18節             これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

19節             そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

このたとえ話を読むと、長男が生まれた次の週の日曜日、教会の礼拝でこの箇所が読まれたのを思い出します。「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」この言葉が耳に入ると、まだ病院にいる長男の顔が浮かび、それ以前は流し読みしていた「わたしの愛する息子」という言葉がひどく心に刺さりました。父親になって初めて、農夫たちに息子を殺された主人公の悔しさが、身に染みてわかるような気がしました。

もちろん、この「愛する息子」というのは、神様がこの世に送ってくださった一人子のイエス様を指しています。それまで、様々な方法で人間に真理を伝えようとしてきた神様は、本質的なことがなかなか通じないと見て、最後の手段として自ら人間の姿を取ります。しかし、「これでもか」という、この捨て身の行動の結果は皆様がよくご存じです。神の愛する子は人間に殺害されます。

 たとえ話に戻りますが、これは地主と小作人の間に起きた騒動の話です。当時の決まりとして、土地の持ち主が相続人を残さないで死ぬと、所有権は小作人に移ることになっていました。この制度を悪用し、地主の息子を殺すという手口を選んだ小作人に同情する人はいないと思います。

しかし、意外なのは、普段は金持ちに厳しいイエス様が、財産に恵まれた地主の肩を持ち、抑圧された小作人を悪者にしているかに見えることです。以前は世界各地に小作という制度がありましたが、近代になって貧しい農民を苦しめる社会悪だという見方が一般的になりました。農家出身の方が多い、津軽地方にも、決して無関係な話ではありません。

 江戸時代の農民は領主に作物の半分を年貢として納める義務があり、藩によって事情が違いましたが、大量の餓死者まで出した弘前藩の農民の生活はとても苦しいものでした。明治時代になり、農民たちは土地を売る自由を得ましたが、年貢を納める代わりに毎年、土地の値段の3パーセントを新政府に税金として納めなければなりませんでした。この義務は不作の年も変わらず、払えない農民の多くは裕福な人たちに土地を売って小作農家になりました。地主に作物の半分を納めなければならない小作農家は、明治維新による近代化の恩恵をほとんど受けることなく、農村の貧困は大きな社会問題になりました。

 中国では共産党が地主から強制的に土地を取り上げて農民に与えることによって支持を得ましたが、戦争が終わった頃、日本の人口の半分を占めていた農家の内、約半分が小作農家でした。駐留軍は農村を中心に共産主義の人気が高まるのを恐れ、地主から農地をただ同然で買い上げ、田畑を耕している小作農家に与えました。このようにして革命の芽を摘み、地方にアメリカを支持する政権を支える強い保守基盤が生まれ、日米同盟は揺るがないものになりました。

 冬休み前の礼拝を思いだしてください。このたとえ話は、のどかなガリラヤの村で語られたのではなく、祭司長たちとのにらみ合いが続く、エルサレムにある神殿の境内で語られました。イエス様は過越祭でエルサレムに集まった巡礼者たちの力を借りて神殿の境内を占拠し、管理責任を持つ祭司長たちの収入源になる商売をやめさせました。

 祭司長たちはたとえ話の主人公と同じ不在地主に当たる人たちで、ユダヤ社会の特権階級の頂点に立っていました。たとえ話に悪人として登場する小作人からは、ほど遠い存在でしたが、この話を聞いた彼らが腹を立てました。それは何故でしょうか。祭司長たちはバカではなく、イエス様が言わんとすることをすぐに理解したからです。

 祭司長たちは地主のつもりで、神殿も礼拝を指導する権利も、すべて自分たちのものだと考えていました。境内で不正な利益をあげても、咎められる筋合いはないと思いました。その彼らにイエス様は言いました。「勘違いするなよ。お前たちは地主ではない。神様から管理を任された小作人だ。小作人である以上、土地の持ち主から小作料を求められるのは当然のことだ。」

 彼らに求められていた小作料とは何でしょうか。神様に心のこもった賛美と感謝をささげること。正しい模範を示し、国民の幸せを祈ること。不正に立ち向かい、弱い者の味方になること。国中にいる祭司たちの頂点に立つ彼らはこのような行動を取らず、自分たちの利益ばかりを求めていました。

たとえ話の中で袋叩きにされ、傷を負わされた僕たちは、ユダヤ人に警告を発しても無視され、虐待まで受けた歴代の預言者たちを指しています。その時点でまだ生きていましたが、地主の息子と同じように殺されたのは、逮捕までの秒読みが始まり、数日後に処刑されることになっていたイエス様でした。少し先のことでしが、エルサレムの神殿の破壊と、祭司長一族の滅亡は着々と近づいていました。管理を任されただけなのに、地主のつもりになって好き勝手なことをする人は責任を解かれ、その人の立場は違う人の手に移ります。政治家であろうと、学校長であろうと、クラブ活動の部長であろうと同じことが言えます。

一年の初めにこの箇所を読むことに何の意味があるでしょうか。地位も立場もない自分には関係ない話だと思うかもしれません。しかし、誰であろうと、そもそも自分のものではない命が与えられ、それを管理する責任が一人一人にあります。聖書は身体でさえ自分の物ではなく、神様の霊が宿る聖なる宮だと教えています。勝手に傷つけたり、不健康な生活習慣で粗末にしたりしてはいけないし、悪事を行う道具にしてもいけません。

2021年という年が始まりました。私は人生の60年目を迎えたので、健康に過ごせた年月の数と、それに伴う責任を意識せざるを得ません。持ち主である神様から、限りある、管理義務を問われる、時間という物が与えられたと思うと、神妙な気持ちでこの一年に臨まなければなりません。若い皆様に与えられた時間も無限に続くものではなく、いずれは過去を振り返り、時間をどのように過ごしたかについて考えさせられる時期が来ます。

長期目標を立てるのも良いかもしれませんが、それ以上に大事なのは一日一日の生活をじっくりと味わい、身近にいる人たちを心から大切にし、その日の務めを誠実に行うことです。収穫はすぐに手に入るものではなく、山の頂上を踏む前にはまず、一歩ずつ上を目指して進まなければなりません。

2021年の大晦日にこの一年を振り替えると、幸せなことをばかりが思い浮かばないのは覚悟していると思います。しかし、その時になって、預けられた時間を精一杯に生きたと言い切れるなら、間違いなく幸せな一年だったと言えることでしょう。皆さまにとって実りの多い、神様の恵みがたくさん詰まった、本当に良い一年になることを祈ります。

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