2021年1月25日 礼拝説教 「復活の信仰」

 

 2021125日 礼拝説教

「復活の信仰」

ルカによる福音書202740

27節             さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。

28節             「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。

29節              ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。

30節             次男、

31節             三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。

32節             最後にその女も死にました。

33節             すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 

34節             イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、

35節             次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。

36節             この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。

37節             死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。

38節             神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

39節             そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。

40節             彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。

 これまで読んできたルカによる福音書の中で、何度も登場したのはファリサイ派の人たちでした。貧しい人たちの苦悩を無視してまで、ユダヤ教の律法を厳しく守らせようとする彼らと、徹底的に社会的弱者の見方をするイエス様の間に、争いは絶えませんでした。しかし、ここで初めて登場するサドカイ派の人たちはだれでしょうか。神殿を管理する祭司長の取り巻きを中心とする、富裕層のエリートたちでした。これまでは、庶民派のイエス様とほとんど接点がありませんでした。しかし、神殿の境内を占拠された以上、ナザレのイエスをもはや、無視する訳には行きませんでした。

 祭司長たちは過越祭が終わり、巡礼者たちが帰るまで待とうと決めていましたが、それまでの間、彼らの手下は適当にジャブを入れながら、イエス様を困らせようとしました。ローマへの納税に反対するだろうと思い、税金についての質問で罠を仕掛けましたが、イエス様の返事には文句のつけ様がありませんでした。次は、ファリサイ派と同じように死者の復活を信じているだろうと見て、取って置きの屁理屈で責めて来ました。

 ユダヤ社会の最高議会に当たるサンヘドリンを牛耳っている二大派閥はファリサイ派とサドカイ派でした。ファリサイ派はイエス様と同じように神の国の到来を信じていました。対照的に、ローマやギリシャの学問にかぶれていたサドカイ派は、ダビデの子孫が王になるユダヤ国家の復活や、死者が生き返る話をバカにしていました。彼らはその根拠になる旧約聖書の後半部分を聖典として認めず、創世記から申命記までの、いわゆるモーセ五書にしか信用を置きませんでした。

 彼らが持ち出したのは、死者の復活を信じる人たちを困らせるためにできた、バカげた話でした。当時は、財産を受け継ぐ子孫がいないまま死ぬのが大きな不幸だと思われました。一夫多妻が許されていたので、死んだ人の兄弟には、その寡婦を妻として迎え、兄弟に代わって子孫をもうける義務がありました。復活があるなら、この慣習に従った七人の兄弟が次々と亡くなり、同じ女性を妻として迎えたら復活の世では困るではないか、というのが彼らの主張でした。

 七人の兄弟の話を一蹴した後に、イエス様はサドカイ派の意表をつき、彼らが信じない預言者の書ではなく、信頼を置くモーセ五書を引用して復活の根拠を示しました。ユダヤ人の先祖、アブラハム、イサク、ヤコブが、死んでから何百年も過ぎていたのに、神様が出エジプト記の中でモーセに語りかけた時、「アブラハム、イサク、ヤコブの神だった」と過去形を使わないで、「アブラハム、イサク、ヤコブの神だ」と現在形を使ったことを指摘しました。この現在形の使用が復活を証明しているというイエス様の主張に、サドカイ派は黙り、そばで聞いていた律法学者に「立派な答えだ」とうならせました。

 議論を仕掛けてもイエス様に勝てないと諦めたサドカイ派はこれで真理を悟ったでしょうか。そのようなことはなく、奥まったところで、どのようにしてイエス様を抹消できるかの相談を続けました。紀元70年に神殿がローマ軍に破壊されると、政治力と経済力の基盤を失ったこのサドカイ派はその後の歴史から姿を消しました。

対照的に死者の復活と神の国の到来を信じ続けたファリサイ派はユダヤ教として、イエス様の弟子たちの仲間はキリスト教として今もなお続いています。復活を信じる人と信じない人の生き方だけではなく、後世に与える影響まで違ってきます。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」この確信に立つ信仰の強さを侮ってはいけません。

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