2021年1月18日 礼拝説教 「ローマへの納税」

 

2021118日 礼拝説教

「ローマへの納税」

ルカによる福音書202026

20節          そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。

21節          回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。

22節          ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」

23節          イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。

24節          「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、

25節          イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

26節          彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。

主権国家はお金を自由に発行できるので、税収が一時的に減ってもあまり困りません。日本政府がいくら借金しても破綻しないのはそのためです。アメリカは大きな貿易赤字を抱えても、世界各地にアメリカドルを無制限に受け取ってくれる国がある内は、輸入の支払いに困りません。誰が売り買いしても、原油の取引は原則としてアメリカドルで行うことになっているので、原油に頼る世の中では、ドルを大量に発行してもその価値はほとんど下がりません。

しかし、日本円にしても、アメリカドルにしても、納税という手段で出回る通貨の量を減らして調整しないと、いずれは通貨の価値が下がります。効率の良い税金を集めるシステムがないと、国家は最終的に破綻に向かいます。だからこそ、力がある国は国民や支配する民族の納税義務を徹底させます。

新約聖書時代の地中海周辺で絶対的な力があったのはローマのお金でした。ローマ皇帝の肖像が付いている貨幣を手に入れると、周辺地域の品物は何でも手に入りました。ローマの経済圏に住んでいると、いろいろなメリットがありましたが、ローマへの納税義務もありました。ユダヤの祭司長たちはローマ帝国と手を組んでいたので、あまり気にしていませんでした。しかし、「ローマへの納税拒否」は、ユダヤ解放運動の中心的な主張の一つで、これに業を煮やす、愛国心に燃えるユダヤ人がたくさんいました。

イエス様に「ローマに税を納めろ」と言わせたら、この人たちを激怒させ、命が狙われます。「ローマに税を納めるな」と言わせれば、ローマ兵に密告されて逮捕されます。本論が尽きると屁理屈で相手を困らせるのは、不誠実な人の常とう手段ですが、イエス様はこの策を見抜き、少しも動揺しませんでした。

 質問者にお金を見せてくれるように頼みました。出てきたのはローマ皇帝の肖像がついたデナリオン銀貨でした。この種の銀貨を神殿に捧げる訳には行かないと知っているユダヤ人にとっても、日常生活には欠かせないものでした。それを見たイエス様は言いました。「所詮はローマからもらった物じゃないですか。だったら、素直にローマに返してあげなさい。」イエス様はローマの支配権を認めた訳ではありませんでしたが、ローマのお金の恩恵を受け取りながら、ローマに税金を納めることに抵抗することの矛盾と空しさを指摘しました。

 しかし、イエス様はそれと同時に、決してローマに納めてはならないものがあると教えました。それは神として崇められるローマ皇帝への礼拝であり、真実を語って良心に従って行動する人間としての心でした。イエス様の弟子になる人はこのためなら、命をかけて抵抗する覚悟を持たなければなりませんでした。その後、何世紀もかかりましたが、古代の世界にはなかった政教分離のjitu実現は、イエス様のこの教えに由来するものとも言えます。

 戦争が終わるまで日本のキリスト教の教会で、天皇陛下がいる皇居に向かってお辞儀をする、宮城遥拝という行為が強制された時期もありました。もう亡くなられましたが、これを拒否して投獄された方に会ったことがあります。心の準備をする隙を与えないで、思いがけなく、「神のものは神に返す」のがとても困難な時代が襲って来ることがあります。

 冬休み中に信念を曲げようとしなかった香港の活動家たちの逮捕のニュースがあり、つい先日、二世紀以上も民主主義の先導役だった国で前代未聞のことが起きました。退任する大統領に扇動された暴徒の集団が、次期大統領を承認する手続きに取り組む議会に侵入しました。いつ、何があるのか、わからないのが世の中です。突然の変化に備え、自分にとって譲ってはならない「神のもの」とは何かを心の中で決める必要があります。覚悟を決めた人は、いざとなっても動揺することなく、冷静な行動を取ることができます。

Comments

Popular posts from this blog

2019年3月8日 終業礼拝 「心のメンテナンス」

2024年2月26日 礼拝説教 「同行してくださる神」

2023年7月10日 礼拝説教 「人の心を固くする神」