2020年12月18日 クリスマス礼拝説教 「クリスマスの意外性」
2020年12月18日クリスマス礼拝説教
「クリスマスの意外性」
マタイによる福音書1章18節~2章3節
18節
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
19節
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
20節
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
21節
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
22節 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23節
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
24節
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
25節
男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
1節
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2節 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
3節 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
クリスマス物語と言えば、天使と羊飼いと馬小屋を連想すると思いますが、その話を伝えているのはルカによる福音書だけで、マルコとヨハネはイエス様の誕生物語には一切、触れていません。今、読んだマタイによる福音書にはマリア様の影も薄く、主役を演じるのはナザレのイエスと血縁関係のない、ヨセフという不幸とも取れる運命を背負わされた青年です。不幸と言えるのは、中東の習慣に従って結婚の誓いを立ててから、妻を迎え入れるまでに設けられた準備期間中に、相手の女性の妊娠が発覚したからです。
夫となるヨセフは、身に覚えがなかったので、両家にとって耐え難い不名誉な出来事でした。今でも名誉殺人が話題になる中東社会という背景を思い起こせば、事の重大性を理解していただけると思います。結婚していない女性の妊娠は一家の恥として捉えられ、家の名誉挽回のため、家族自らその女性の命を絶つという悲劇は、現代に至って何度も繰り返されてきました。
本能のレベルで言うと、男は生き物として子孫を残すために特定の女性に自分のすべてを注ぎ込みます。軽率な付き合いにも嫉妬が起きますが、一生に一回切りの結婚となると、騙されて他人の子供を孕んだ女性と結ばれ、その出産を迎えるのは、耐え難く屈辱的なことだと考えるのが一般的です。
マタイが描くクリスマス物語の最初の要素は、このような事態に直面したヨセフという男性の深い優しさと、「大丈夫かな」と心配したくなるほどに広い、心の寛大さです。村に知れ渡った結婚だったので難しいのは覚悟していたでしょうが、まずはことを荒立てることなく、ひそかにマリアと縁を切ろうとします。マリアが自分との誓いを裏切ったと決めつけるのをためらったのでしょう。
悪い男に騙されたのか、無理強いされたかは分からないが、マリアにしかわからない辛い事情があったのだろうと想像したかもしれません。当時は占領された国だったので、外国から来た兵隊たちが国中にあふれていました。男たちは戦争に駆り出されて死を覚悟すると、命が保障されているからまだ増しだと考える、女性の権利を軽く見る傾向があります。どの戦争の影にも、尊厳を奪われる女性たちの悲劇が潜んでいます。
そのような状況に置かれたヨセフはある夜、横になって悩みながら眠りにつき、夢を見ます。夢の中で神様からの使いが現れ、「妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」と語りかけます。旧約聖書を読むと夢の中で不思議な体験をする人がいます。中東では今でも夢を大事にする習慣があり、この夢には私たちが思う以上に大きな意味があったかもしれません。しかし、夢の中で指示を受けたとは言っても、次に取った行動から判断すると、ヨセフは特別な人でした。
マリアが妊娠したのは、男性の介入がない奇跡的なこととして捉え、神の子を預かったと信じて、マリアとその胎内にいる子供を守ることを自分の責任として受け入れます。クリスマスの意外性を象徴する最初のできごとはヨセフのこの行動です。マリアが自分を裏切るはずがないと信じ、夢の中で聞いた言葉を神様のお告げと確信し、屈辱と、落胆と、激しい怒りが伴うはずのできごとを、愛と希望に満ちた、世界中の人たちがクリスマスとして祝うできごとに変えました。
結果として一人の男の子が生まれます。これならどこの町でも、毎日のように起きる、ごくありふれた事として片づけることができるでしょうが、この子供の誕生の波紋はすぐに国境を越えます。地元の人たちの目には何ともないことなのに、ユダヤの国から遠く離れた場所で星占いをする人たちが、天体の異常に気づきます。星占い師と言っても、当時の感覚で言うと、天文学を含むあらゆる知識に通じた、身分の高い学者たちのことです。不思議な星の動きは彼らを、通常では考えられない行動に駆り立てます。
東の国と言えばどこでしょうか。イラクやイランのあたりではないかという推測が一般的ですが、インドかもしれません。中国や日本と言えばちょっと無理があるでしょうが、とにかく、高価な贈り物を用意して、マリアが生んだ子供との面会を求め、遠い国に向かいます。ユダヤの国に到着し、国をあげてお祝いしているだろうと期待した彼らは拍子抜けします。現地の人たちに尋ねると、ユダヤ人の王として生まれた子供の話はだれも聞いていません。
ここまで来て諦める訳には行かない星占い師たちは調べぬいた結果、王様の宮殿があるエルサレムから南に歩いて1時間くらいの場所にあるベツレヘムの町にたどり着きます。そこにあるのは宮殿でも、立派な邸宅でもなく、平民が暮らすただの家です。しかし、この家の真上に特別な星が輝いています。クリスマスツリーのてっぺんに飾るのは、あの時に輝いていたベツレヘムの星に由来する模型です。
現代人の私たちには想像しづらい場面ですが、星占い師たちはこれに納得します。大喜びになって家に入ると、そこにはマリアと、少し大きくなった姿に成長した幼子がいます。ヨセフが妻として迎え入れた女性が生んだあの子供です。二人の存在を確認すると宝の箱を開け、高価な贈り物を差し出して幼子を拝み、名前も言わずに国に帰り、二度と姿を現しません。一体、何ごとでしょう。これはクリスマスの意外性を象徴する二つ目の出来事です。
近くにいるからよく見えるとは限りません。文化が同じだから大事なことが通じるとは限りません。世話になったからありがたく感じるとも限りません。クリスマスには遠くにいる、言葉の通じない、価値観が合うはずがない、何の縁もない人たちに伝わる力があります。ベツレヘムに行けない人も、クリスマスの主人公に出合い、クリスマスの恵みに預かることができます。
来週中に、一年の中で日照時間が一番短い、暗い日を迎えます。今からしばらくは、気温が最も落ちる寒い季節を迎えます。しかし、朝晩はこれ以上に暗くなることがありません。徐々にではありますが来週から、間違いなく冬の後に春が来る証しとして日照時間が確実に長くなります。
幸せなこともたくさんあったと思いますが、今年一年を思い通りに過ごした生徒は少なかったと思います。思いがけないことで苦しい気持ちや、寂しい思いを体験したと思いますが、新しい年に期待を膨らませながら、心温まるクリスマスと、良いお正月を迎えられることを願います。心も体も新たにして新年を元気に迎えましょう。
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