2020年10月19日 礼拝説教 「捜し求めるイエス様」
2020年10月19日 礼拝説教
「捜し求めるイエス様」
ルカによる福音書19章1~10節
1節
イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
2節
そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
3節
イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
4節
それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
5節
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
6節
ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
7節
これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
8節
しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
9節
イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
10節 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
イエス様を一目見ようと木に登った背の低い、嫌われ者のザアカイが、通りがかったイエス様から「急いで降りて来なさい」と言われます。この滑稽な話は子供によく受けるので、教会の子供礼拝の定番になっています。エリコの町民は入り口に座って物乞いをする盲人が癒された事に驚き、町全体がイエス様を歓迎するムードに包まれています。町民たちの多くは「今夜は是非、我が家にお泊りください」と、競うようにイエス様を誘っています。
しかし、人気の絶頂にありながら、エルサレムに着くと十字架の刑が待っていると悟っているイエス様は、この盛り上がりに浮かれることなく、最後の最後まで、イエス様らしい行動を取ります。ザアカイが登っている木の下に来ると立ち止まり、上を見上げて言います。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」イエス様を誘っていた、立派な方たちの間で衝撃が走ります。「あのお方のご指名を受けるのは、私たちではなく、あの徴税人のザアカイ?」
ザアカイは、同胞のユダヤ人を裏切り、ローマ人に代わって税金を集める徴税人でした。見栄えにも人格にも問題があり、友だちもほとんどいなかったようです。しかし、容赦なく税金を集める能力がローマ人に買われ、「徴税人の頭」という地位を手にしました。あまり褒められた身分とは言えませんでしたが、特に男性の場合、お金にありつくと周囲の反応が一変します。顔も性格も悪くても、金目当ての女性が周囲に群がり、金儲けの機会を狙って男性も近寄って来ます。このようにして慕われると、最初は人気者になったと気をよくするかもしれませんが、いずれは相手の本音が見えてくるので、幸せは長続きしません。
ザアカイとは対照的に、イエス様は着の身着のままで旅をする無一文の預言者でしたが、この人と一緒なら死んでも良いと思っている人たちに囲まれています。「お金では幸せも、友情も、愛も買えない。でも、あの人たちは、ナザレのイエスからお金で買えない何かを受け取っている。」先月の礼拝で取り上げた身分の高いお金持ちと同じように、ザアカイはこの方の魅力に惹かれ、速いはずがない足で一生懸命に走り、先回りして見物する準備を整えます。
人気の渦に包まれたイエス様が、自分のような人間に目をかけてくれるなんて、夢にも思っていません。誰にも気づかれることなく、通り過ぎて行くイエス様を、木の上から眺めようと思っているだけです。しかし、イエス様は、落ちないように、木の枝に捕まるザアカイを見落としません。このようにして思いがけなく、対照的な二人の出会いが生じます。
イエス様との出会いを求める人に必要なのは学問でも、修行でも、お金でもありません。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」イエス様は、私たちが一定の基準をクリアするのを待つお方ではなく、失われた私たちを捜し求めるお方です。聖書の最後の書物、ヨハネの黙示録に次の言葉が書いてあります。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をする。」
オフ・コースの「愛を止めないで」の歌詞の基になっていると言われていますが、私たち一人一人に向けられた言葉です。心を開くという、簡単そうで、難しいことを求められているのは私たちです。木の下から見上げるイエス様の誘いを聞き、「急いで降りて来た」ザアカイの行動に、私たちへのヒントが秘められています。
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