2020年9月14日 礼拝説教 「か弱い者の存在価値」

 

2020914日 礼拝説教

「か弱い者の存在価値」

ルカによる福音書1815~17節

15節             イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。

16節             しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

17節             はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

新約聖書時代の世界を支配していたローマ人の残酷さはよく知られていますが、生まれてくる子供に対しても、冷酷極まりない民族でした。ローマの男性は20代の半ば頃まで結婚しませんでした。しかし、女性は思春期を過ぎるとすぐに結婚させられ、10歳以上も年上の夫の権限は、妻が生む子供の生殺与奪の権を含む、絶対的なものでした。

赤ん坊を取り上げたローマの助産師は、父親の前に地面の上に新生児を寝かせました。父親がかがんで赤ん坊を抱き上げて初めて、その家の子供として認められました。父親がいらないと言って顔を背けるなら、赤ん坊は外に放り出され、だれかに拾われない限り、そのまま死んでしまいました。 

ユダヤ教徒はローマ人のこの習慣を強く否定していましたが、ユダヤの子供の命も決して安泰だったとは言えません。世界のどこの歴史を見ても、赤ん坊が大人になるまで生き延びるのが当たり前になったのは、かなり最近のことです。150年くらいまでのデータを見ると、世界の子供の半分は思春期を迎えることなく命を失い、赤ん坊の4人に1人は1歳になる前に死にました。日本の子供の生存率も決して高くはなかったですが、19世紀までのドイツでは、大人になるまで生き延びる子供は全体の4割しかいませんでした。

病気を癒して欲しいと願って、多くの人たちはイエス様に押し寄せましたが、その中に赤ん坊にオッパイを吸わせている母親たちもいました。子供たちに病気があったとは書いていませんが、高校生とあまり変わらない年齢だったこの母親たちは必死でした。今は元気でも、いつ病気になって死ぬかわからない我が子の命の保証を求めていました。どんなに重い病気をも癒すイエス様に触れてもらえるなら、きっと健康に育つだろうと信じていました。

 これを見て気に食わなかったのはイエス様の弟子たちでした。ローマ人ではなく、ユダヤ人でしたが、彼らもローマに支配された時代の価値観の影響を受けていたのでしょうか。「今からエルサレムに上って神の国の設立を宣言する、私たちの大先生、イエス様は、オッパイを吸っている赤ん坊にかまっている暇なんかあるはずがない。」そう確信した彼らは、若い母親たちをきつく叱りました。

 弟子たちの夢を実現させる上で何の役にもたたないこの赤ん坊たちは、泣き声でイエス様の言葉をかき消す厄介な存在でしかありませんでした。しかし、この弟子たちの気持ちは、世界の価値観を根本から変えようとしていた、イエス様とは大きくかけ離れていました。イエス様は、相手が戦力になるかに関心がなく、目に映ったのは、守らなければならない尊い命でした。

神の国は誰のためにあるものでしょうか。強い味方になってくれる、頭の良い人たちではなく、この乳飲み子たちのように、一歩間違えたらすぐに命を落とす、弱くて小さい者たちのためでした。マルコによる福音書を読むと、イエス様はこのすぐ後に、赤ん坊や子供たちを抱き上げて祝福したことがわかります。

 顔にも体にも頭にも性格にも、何もかも自信がある人間はほとんどいません。大半の人は何かの弱さや、劣っている点を意識しながら生きていて、自分の価値について今一つしっくりしないものと格闘しながら生活しています。イエス様のような大先生に近づけるはずもないし、より良い世界を作る人間になんかなれないと思っているかもしれません。今日の箇所はそんな私たちに、子供のように素直な信仰があれば十分で、神の国がそのような私たちの物だと教えています。

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