2020年8月31日 礼拝説教 「心の願いを誰に訴えるべきか」

 

2020831日 礼拝説教

「心の願いを誰に訴えるべきか」

ルカによる福音書1818

1節                  イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

2節                  「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。

3節                   ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。

4節                  裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。

5節                  しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」

6節                  それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。

7節                  まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。

8節                  言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。

都市伝説の類かもしれませんが、100年近く前に開かれた国際会議で、とある国の代表は「我々は神以外に、誰をも恐れない。」と言って演説を締めくくり、大喝采を浴びました。次の国の代表が演壇に立ち、負けまいと思って「我が国は神をも恐れない。」と言い放ちました。反応が今一だったのを不思議に思ったそうですが、聖書には「主を恐れることは知恵の初め。」「主を恐れる人に主は御目を注がれる。」と書いてあります。聖書に親しんでいる人なら、「神をも恐れない」は、人間に与えることができる最低の評価だと知っているので、面白いと感じる話です。

「神を畏れず、人を人とも思わない裁判官。」江戸時代のお奉行さんのような人を想像すれば良いと思いますが、ここで言う「裁判官」は、今なら検察官、弁護士、判事の三人が果す役割を、一人でこなす責任がある人でした。「神を畏れず、人を人とも思わない」なら、裁判官の職に就いてはいけない人でしたが、本人にもその自覚があったことに、このたとえ話の皮肉たっぷりのユーモアが感じられます。 

社会福祉制度がない当時の社会では、夫を失った婦人と、親を失った子供はとてもみじめな思いをしました。社会的に、とても弱い立場にいたので、騙されたり、利用されたりする危険性がとても高かったです。弁護士を雇うお金もなく、賄賂も払えない身分の人たちだったので、不正な裁判官はこのような人たちを可能な限り、相手にしないように努めました。

しかし、裁判の根底にある旧約聖書の律法に次の言葉がありました。「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。」預言者イザヤも「搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。」と言っているので、聖書の言葉を心に留める人であれば、この裁判官のような態度を取ることはあり得ませんでした。

守ってくれる夫がいないこの婦人は、ひどい目に合わされても、人を人と思わない、血も涙もない裁判官がいる街に住んでいたので、法に訴えても正義を勝ち取る方法はなさそうでした。しかし、この婦人に一つの強力な武器がありました。それはうるさいと思われてもかまわない、ひっきりなしに、裁判官の所に言って大声を出して訴える行動力でした。「恥ずかしいからやめよう。」「みっともないから遠慮しておこう。」とは思わず、なりふり構わずに攻め続けました。

結果的に不正な裁判官はこの夫のいない婦人に根負けしてしまいますが、イエス様が言いたかったのは「裁判沙汰を恐れないで訴訟を起こせ。」ということではなく、「気を落とさないで祈れ。」ということでした。いくら祈っても願い事が聞かれないと思うことがあっても、聞いてくださる神様は、この不正な裁判官とは対照的なお方で、「速やかに裁いてくださる」方です。

頑なになった人の心を動かすのは不可能に近いのに、私たちは見えない神様より、目に見える人間を当てにして説得したり、気を遣ったりして願いを聞き入れてもらおうとします。神様に祈った方がよほど効果的なのに、「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」と言って、神を信じようとしない世の中への嘆きを口にして、イエス様は話を終わらせます。

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