2020年1月14日 始業礼拝 「演出家は満席にこだわる」


2020114日始業礼拝
「演出家は満席にこだわる」


ルカによる福音書1415節 ~ 24


15節             食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。
16節             そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、
17節             宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。
18節             すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。
19節             ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。 
20節             また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。
21節             僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
22節             やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、
23節             主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。
24節             言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』

一昨年の1017日、さいたまスーパーアリーナで開かれる予定だった歌手、沢田研二のコンサートは開始直前に中止されました。理由はコンサート会場が満席にならないと知った沢田研二が出演を拒否したからです。キャンセル料やチケットの払い戻しで主催者の損失は4千万円に上るとされましたが、それ以上にがっかりしたのはわざわざ会場に駆け付けたファンの方だったと思います。イベントの主催者は常に満席を求め、「主催者発表」と聞くと、実数より多いと考えるのが一般的です。最近はこぢんまりとした結婚式やお葬式を好む傾向がありますが、世界のどこに行っても、人生の大切な節目に、大勢の人が集まらないと寂しいと思うのが人間の一般的な心理だと思います。

ニュージーランドで体験したことですが、一歳の孫が誕生日を迎えたフィジー出身の方から、誕生会の記念撮影にだけ入って欲しいと頼まれたことがあります。用事があって立ち寄っただけなのにと遠慮していたら次のように言われました。「写真だけでも良いから入ってくれ。孫が大きくなったら、誕生会にこんなに大勢の人が来てくれたと思って欲しい。」三年前の、就任式に集まった人の数が前任者より少なかったことに腹を立てたアメリカのトランプ大統領も、記念写真を細工させたり、報道官に「史上最高の出席者数だった」と言わせたりしたのが大きな話題になりました。

 今日の聖書の箇所に目を移しましょう。盛大な宴会を催した人がいました。何かのお祝い事だったかと思いますが、来る約束をした招待客は直前になってあれこれと理由を付けて欠席すると言いました。宴会の席が並べられ、テーブルに美味しそうなご馳走が上がっていましたが、肝心なお客さんは来ませんでした。宴会の主人はここで一大決心をしました。普段は招かれるはずがない、乞食やホームレスの人たちを呼ぶことにしました。豪華な食べ物を口にする機会が滅多にない、社会の底辺にいる人たちを客としてもてなすことにしました。それでも満席にならないと見ると「無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。」と言いました。

 この例え話を通してイエス様は何を言いたかったのでしょう。おそらく、神の国を告げる自分の教えや、どんな人にも救いの手を伸べる奇跡の業を宴会のご馳走に例えていると思います。旧約聖書を忠実に学び、正しい生活を志してきた人たちが優先的に招待を受けました。しかし、日常に没頭していた彼らは、後にも先にもないイエス様との出会いを軽く受け流し、願ってもないチャンスを失いました。結局、その恩恵を受けたのは外見的にまともに見えない人たちや、行儀良く真面目なんかできやしない人たちでした。

 教会でこの箇所が開かれると、次の解釈を聞くことが多いと思います。イエス様の福音はすべての人に、無償で受け取れる贈り物として提供されています。神様の愛を受け入れるなら、だれでも神様の子供になれます。告白して悔い改めるなら、どんな罪でも赦されます。信じる人には、死んでもなお生きるという永遠の命が与えられます。これこそ、福音というご馳走その物です。しかし、それを聞く人たちのほとんどは適当に聞き流します。

若い人はもっと面白そうな物がたくさんあると思って見向きもしません。中年の人は例え話に登場する招待客と同じように、日常的な忙しさに追われ、じっくりと検討する暇さえありません。お年寄りは今更そんなことを信じて何になると思ってそれまでの考えを変えようとしません。まだ泳げるから大丈夫だと言う人の目に、イエス様の姿が映ることなく、溺れそうになった人に限ってイエス様の差し伸べられた手が見え、「助けてください」と言って近づいて来ます。

 この宴会を学校に例えたらどうなるでしょうか。食べず嫌いの人や、無理やりのどに詰め込まれ、食べるのも嫌になった人もいると思いますが、学校は正に、ご馳走が並んでいる宴会のような場所です。高等学校には、人生の今の段階で学べるほとんどの事を、詳しく丁寧に教えることができるスタッフが揃っています。厳しい先生、優しい先生、面白い先生、面白くない先生。そのような見方しかできないなら、目の前にあるご馳走に気が付かないまま、三年間が過ぎて行くかもしれません。

しかし、高校の教員は皆、大学で特定の分野について徹底的に学び、教え方についてプロの技を磨いてきた専門家です。専門外のことになるともちろん、知らないことが山ほどあります。しかし、高校生が知りたいほとんどのことについて、この校舎のどこかに、驚くほど豊富な知識を持っている人がいます。聞いても教えてもらえないだろうと考えないでください。自分が知っていることに興味を示す生徒が目の前にいると、教員が皆持っている本能が作動し、時間を惜しむことなく真剣に、分かりやすく教えてくれます。

 信じないなら騙されたと思って試してみてください。三年生で進路が決まっていない生徒はそれどころではないかもしれませんが、進路が決まっている生徒にはまだチャンスがあります。終業式までのわずか半月、卒業式まで一月半を上手く活用してください。三年近く一緒に過ごした教員に、これまで聞けなかったことについて教えてもらえる貴重な時間が今に過ぎようとしています。マスコミが視聴者の暇つぶしに付き合って垂れ流す情報とは違います。免許状の裏付けがある、組織的に学んだ人の確かな知識です。

 二年生には事実上、あと一年しか残されていません。一年生も卒業までまだまだと思うかもしれませんが、時間は皆様が想像する以上に速く、確実に進んでいます。まだ完全な制度とは言えませんが、昨年の暮れに国の制度が変わり、これまでは経済的理由で私立学校に子供を通わせようと思わなかった家庭にも、私学への道が大きく広がりました。一定の年収以上の家庭には当てはまりませんが、東奥義塾に通う半数以上の生徒が学校に収めるお金の内、授業料の分は一切払わなくても良くなります。

 私が初めて東奥義塾に勤めた頃、この礼拝堂の通路にパイプ椅子を置かないと、全校生徒を座らせることができませんでした。あの頃に比べると大学への道も大きく広がりました。今なら誰でも入れると思われそうな地元の大学にも、東奥義塾が何人推薦しても勉強で一人、スポーツで一人だけ合格し、他の生徒は皆、落とされました。生徒はもちろんのこと、大学進学への道筋を何とかつけようと務めていた担任の先生もとても苦労しました。

今は、イエス様の言葉が実現する時代を迎えたと信じて新年を迎え、気持ちを新たにして立場を全うしたいと思います。「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。」

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