2019年9月9日 礼拝説教 「災難の中にもある神の愛」


201999日礼拝説教
「災難の中にもある神の愛」

ルカによる福音書131節 ~ 5

1節                  ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生贄に混ぜたことをイエスに告げた。
2節                  イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
3節                  決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
4節                  また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。
5節                  決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」


現代人の間で、災害、事故や、犯罪による悲劇の背景に、目に見えない何かがあると考える人は少なくなりました。災難を防ぐことができたはずだと、人や組織を厳しく攻めることがあっても、神様や、災難に合った人の悪事のせいにする人はほとんどいません。しかし、国や地方によって、悪い事が起きると、神様や怨霊の罰が当たったと言う人は今もいます。新約聖書時代のユダヤ人の間で、このような考え方はむしろ主流でした。

「ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生贄に混ぜた。」この事件は聖書のこの箇所以外は、史料として残っていませんが、ピラトという人は有名です。イエス様に報告されたこの出来事は、他の史料から浮かび上がる、情けを知らないローマの総督、ピラトの人物像と一致します。「シロアムの塔が倒れて十八人が死亡した。」地震があったのでしょうか。それとも、塔の建築が杜撰だったのでしょうか。これも福音書を書いたルカの記載がなければ、人類の記憶から消えた話です。

キリスト教信仰が定着すると、このような出来事は、更に違う角度から問題視されました。「全能の神は愛だ」と言うなら、何故、このようなことが起きるのか。災難を止めることができなければ全能の神とは言えない。止める意思がなければ愛の神とは言えない。18世紀の啓蒙の時代に入り、ヨーロッパの哲学者たちはこの理屈を武器に、伝統的なキリスト教の考え方を攻撃しました。

イエス様の解釈はちょっと意外なものでした。まずは災難に合った人たちに罰が当たったという考えを一蹴しました。「人間は皆、大なり小なり悪い事をしているが、あの不幸な人たちが特別に悪かった訳ではない。そのような災難に合うのは、だれにだってあり得ることだから、同じ目に合わないように十分に反省して気を付けなさい。」

「それは神様を信じることにこだわる人の屁理屈だろう。正しい人にも、正しくない人にも、分け隔てなく災難が襲うのは、神も仏もいないことの確固たる証拠ではないか。もし、永遠の愛を約束し、不可能がないと主張する全能の神がいるなら、人を災難から守って下さるのは当然ではないか。」

このような疑問を抱き、愛の神の存在そのものを否定する気持ちは十分に理解できます。しかし、もしかしたら、この考え方そのものが、私たち人間の勝手の思い込みから来ているのかもしれません。愛の神様は、車の前に飛び出した子供の手を引き、火事になった建物の火を消し、地震が起きたらくずれないように建物を支え、台風が向かって来たらその進路に立ちはだかると期待しても良いのでしょうか。

もしかしたら、神様の愛はそのようなものではないのかもしれません。普段は意識しなかった生活環境のこの上ない有難みを味わわせ、生まれて来たか弱い命の尊さを実感させ、災難の前まで互いに見向きもしなかった住民の心を固く結び合わせるもの。もし、これが神の愛の本質ならどうでしょうか。

人生のもっとも深い問いに答える知恵は,人間にはありません。災害がもたらす日常生活の中断も、悲劇に合う人たちの心の辛さも、無慈悲に転がるサイコロの目のような、特に意味のないことだと考えるのも一つの生き方です。

もう一つの生き方は、災難に合った時、普段は日々の幸せを忘れ、不平しか言わなかった自分を反省し、悲劇の中にも尊いもの見つけ、神の愛を見出そうとする生き方です。イエス様が私たちに勧めているのは後者の方です。

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