2019年8月26日 始業礼拝 「火を投じる人」


2019826日始業礼拝
「火を投じる人」

ルカによる福音書1249節~53

49節             「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
50節             しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
51節             あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
52節             今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
53節             父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」


 火を使い始めたのは原始人でしたが、産業革命が始まっても、火が燃える仕組みはよく理解されていませんでした。古代人は、物質を構成する元素の一つに「火」があると信じていました。科学の時代の初期の頃、燃える物の中に「火」の元素があり、条件が整うと火が飛び出して燃えるという考えがありました。物が燃えるという現象が理解され始めたのは、わずか二百数十年前のことでした。酸素の存在が知られたのも同じ頃でしたが、燃焼は可燃物と酸素が結合する化学反応だと突き止めたのは、フランス革命中にギロチンで首が飛んだアントワーヌ・ラヴォアジエという人物でした。

 聖書が書かれた時代のユダヤ人は火を、人間が近づけない、神様を象徴するものとして考えました。十戒を授かったモーセは最初に見た神様の姿を、「柴の間に燃え上がっている炎。柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。」という言葉で表しました。宗教的な儀式の中で、神様にささげる物は、火で燃やされることによって神様のところに届くとされていました。火には腐ったものを清潔にし、金属を更に純化する効果があります。罪ある人間が神様に近づくと、燃え尽きてしまうと信じられていましたが、火に燃えて残った物が、純粋で本物だという考えもありました。新約聖書のヘブライ人への手紙に次の言葉があります。「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。」

 イエス様には、暴力を否定する平和主義者のイメージがあるので、今日の聖書の箇所に違和感を持つかもしれません。「地上に火を投じる。平和ではなく分裂を。」十七条の憲法にある聖徳太子の「和を以て貴しとなす」という言葉とは対照的です。「平和を実現する人々は幸いである。」という、イエス様ご自身の言葉にも矛盾するような印象を受けます。支配する立場にいる人は、庶民が喧嘩しないで、仲良く暮らせば良いと考え、現状に問題があると言って声を上げる人を煙たがります。しかし、イエス様は腐った世の中を火で燃やしたいと言ったので、優しい仙人というよりは、支配層に嫌がられる革命家の部類に入っていたのは間違いありません。
  
 「世の中を変えたい。」どこに行っても、若者が活発になると、このような思いに駆られます。日本の戦後のベビーブーム世代が大人になりかけた頃、体制を転覆させようと思って、革命運動に参加する若者が多くいました。その世代の子供、団塊ジュニアたちの多くは、尾崎豊の歌詞「行儀よく真面目なんかできやしなかった。夜の校舎窓ガラス壊してまわった。」に見られるような心境を味わい、行動に移しました。最近の香港では、民主化と逆方法に進む中華人民共和国に飲み込まれそうな懸念が高まり、民主主義と表現の自由を切望する若者が集団になって抵抗運動を起こしています。

 若者の結束力がはっきりとした変革を起こすこともあります。「みんなの声を合わせれば何か言える。みんなの手と手を合わせれば何かできる。」という本田路津子の歌の歌詞の通りになることがあります。成功する革命もあります。しかし、理想とされていた結果が生まれるのは稀です。イエス様が言った通りに平和ではなく、分裂が起きます。革命思想で一致していると思い込んでいた仲間の間に派閥争いが始まります。何をやっても同じだという諦めムードが広がり始め、革命の火が一気に沈静化に向かうのが一般的な結末です。

「地上に火を投じるために来た。」と言ったイエス様の教えには、当局の監視の目を光らせる要素がたくさんありましたが、イエス様は革命の火を点火させる前に、通過しなければならない試練があると覚悟していました。「それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむだろう。」自分自身が死に至る苦しみに耐え、裏切りと絶望の向こうにある復活の命に到達しないと始まらないことがあると悟っていました。

イエス様の生涯が終わり、不純な動機の塊だった弟子たちに大きな変革が起こりました。イエス様とお別れして十日間がたち、激しい風が吹いて来るのが聞こえ、炎のような物が現れて分かれ、一人一人の上にとどまったという話は、使徒言行録の2章にあります。この瞬間、私利私欲に迷う弟子たちの思いから不純な物が消え、世界を変える火に燃やされて行動を開始しました。
  
皆様のほとんどは、何かに燃えたという気持ちを味わったことがあると思います。燃える思いがあると、時間が過ぎるのが速く、退屈することもなく、何のために生きているのかを疑問に思う暇もありません。情熱の対象に心が奪われ、まわりの人たちも当然、同じような思いになってくれるものと期待します。

しかし、周囲の人たちを巻き込み、みんなで一緒に燃え、くすぶることなく燃え続けることは簡単なことではありません。情熱の火を消すものは無数にあります。短い時間なら、他人も付き合ってくれますが、その内に興味が薄れ、気持ちが離れます。志を一緒にしてくれた仲間が少しずつ減ると、よほど強い決意がない限り、自分の熱意も冷めて行きます。

不純なものを切り捨てる覚悟がないと、純粋な火は燃え続けることはありません。情熱の火を消すのは日常的で、ごく身近にある見慣れたものばかりです。周囲におやつが転がっていると、お腹がすいていないのについに口に入れてしまうのと同じで、何気なく私たちの注意を引くものが無数にあります。

昔は主にテレビでしたが、今の世の中は気を紛らわす、さりげなく誘惑をかざして時間を奪う物に満ち溢れています。そのような物から自分を切り離そうとすると、イエス様が言った通りに、周囲の人たちとの分裂が生じます。付き合いの輪を限定し、同じ志を持たない人と一定の距離を置く必要に迫られます。

皆様の力漲る元気な様子から判断すると、充実した思い出深い夏休みを過ごしたと見受けられます。2019年の夏の思い出を心のどこかに、大事にしまっておいていください。何年も先に、あの夏が最高だったと思い出す日が来るかもしれません。今、目の前にあるのは、一年の中で勉学に、切れ目なく最も長く集中できる季節です。二学期が終わるころ、この暑さを夢のように思い、窓の外に、舞い落ちる雪の姿が目に映ることでしょう。

この日から再び、東奥義塾の魂として燃える「敬神愛人」の火に触れ、かびることも、さびることもなく、燃やされて過ごす生徒と教師の集団になりたいものです。2年生はこの周辺の、他のどの高校でも体験できない形式で行われる修学旅行に参加します。その直後に、これも東奥義塾ならでは体験として、出来上がったばかりの人工芝の上で大運動会が行われます。それから間もなく3年生は、卒業後の進路につながる試験を受けに出かけ始めます。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」この言葉の意味をかみしめながら実りの秋を迎え、くすぶることなく、燃え続けて年末に向かって進みましょう。

Comments

Popular posts from this blog

2019年3月8日 終業礼拝 「心のメンテナンス」

2024年2月26日 礼拝説教 「同行してくださる神」

2023年7月10日 礼拝説教 「人の心を固くする神」