2019年5月13日 礼拝説教 「間違った清潔感」


2019513日礼拝説教
間違った清潔感」

ルカによる福音書1137節 ~ 44節 


37節          イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。
38節          ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。
39節          主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。
40節          愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。
41節          ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。
42節          それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。
43節          あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。
44節          あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」

手の消毒やゴム手袋の着用は近代的な医療や食品衛生の基本中の基本です。最近、食品工場の見学をさせていただきましたが、商品として売られる食べ物の扱いの厳しさに驚きました。しかし、日常生活になると、私たちの衛生感覚はかなりいい加減なものになります。食べ物を手でつかんで口に入れたり、食器を共有したりして、雑菌を毎日のように胃袋に入れます。とは言っても、医者によると飲み込んでから間もなく、雑菌のほとんどが胃酸に殺され、O157のような特殊なケースを除けば、病気になる可能性がほとんどないと言うので、さほど気にする必要もないかもしれません。

水で洗うと心も体もきれいになるという考えは、細菌学の知識が乏しい時代から、世界各地の宗教にありました。イエス様の時代、ファリサイ派のユダヤ人は、旧約聖書の戒律を拡大解釈して水洗いをとても大事にしました。食卓のそばに水の入ったたらいを置き、食事の前は、水の中に手を入れてから席に着きました。ファリサイ派の家庭に招かれたイエス様は困ったことに、そのしきたりを無視しました。招いてくれた家の主人を、挑発するかのように、手を洗わないまま食事を始めようとしました。

ファリサイ派の人たちはイエス様の教えに真っ向から対立していたと思われがちですが、共通点が多く、支持層も活動範囲も重なっていました。仲良くなって味方に付ける良い機会だったのに、イエス様はそれを敢えて拒み、招いてくれた人たちを敵に回す、痛烈な批判を始めました。「人一倍に清潔を大事するお前たちこそ汚い。器に外側と内側があると同じように、人には外面と内面がある。外面がきれいでも、お前たちの内面はひどく汚れている。」清さを保つために、死体やお墓との接触を何よりも避けようとする彼らこそ、「人目につかない墓」、つまり墓石がない所に埋まっている死体のような物だと言いました。

清潔感を誇りにするファリサイ派のどこが悪かったのでしょうか。イエス様は彼らの欲深さを指摘しました。「周囲に生活が苦しい人たちが大勢いるのに、お金や財産をため込むと心が汚れる。」イエス様が非難したのは生産的な活動の結果として生まれる金儲けではありませんでした。「お金儲けは良いが、心が汚くならないように器の内側、つまり財布や銀行口座に入っているものを気前よく施しなさい。そうすればきれいになる。」

これでも十分かと思うのに、イエス様は攻撃の手を緩めることなく、ファリサイ派の矛盾した順法精神を非難しました。真面目なキリスト教徒は今も収入の十分の一を教会に捧げますが、これは旧約聖書に教えに従うユダヤ人の習慣に由来します。神殿に奉仕する祭司に麦やブドウの収穫、生まれて来る子牛や子羊の十分の一を捧げる一般的なユダヤ人と違って、ファリサイ派の人たちは庭に生えるハーブの薄荷や芸香まで几帳面に一本ずつ数え、十分の一を捧げました。そこまで細かく計算して自分の正しさを証明する彼らは、見返りに一目置かれる存在になると期待し、皆から挨拶を受け、偉い人たちが座る特別席に通されるのを喜びとしました。

互いに神の国が来るのを期待していましたが、ファリサイ派は「正義の実行と、神への愛をおろそかにしていました。」イエス様はこの人たちと一緒にやっていけないと判断しましたが、この日の決裂は近づいて来るイエス様の逮捕につながる出来事でした。弱い人たちに優しく、徹底的に貧しい人たちの見方をするイエス様でしたが、時には場の空気を読まない、過激な言葉を口にする、このような場面もありました。ここに和を重んじて仲間を増やそうとする前に、捨て身の姿勢で神の国の実現を目指す人の姿がありました。

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