2018年7月2日 礼拝説教 「難しそうで小さな問題」
2018年7月2日礼拝説教
「難しそうで小さな問題」
ルカによる福音書9章37節~43節
38節
そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。
39節
悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。
40節
この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」
41節
イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」
42節
その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。
43節
人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。
「青森県で景色が一番綺麗な場所はどこだと思いますか。」と聞かれることがありますが、私は「八甲田山系の毛無岱」と答えます。山登りが趣味の方なら分かりますが、車で通れない場所なので、青森県の大多数の方は見たことがないし、聞いたこともないと言う方もいます。酸ヶ湯温泉の駐車場から山に向かって左側に登ると、一時間くらいで行ける場所ですが、下毛無岱と上毛無岱を結ぶ281段の階段の途中から見下ろす下毛無岱は絶景そのものです。十月初めの紅葉の時期は一番綺麗ですが、木がほとんどない、小さな池が点在するこの湿原は、いつ行っても、とても不思議な気持ちにさせてくれる特別な場所です。
青森県にある、見たことのある方が少ない、もう一つの絶景と言えば、晴れた日の、雪山の岩木山の頂上から見下ろす津軽平野です。何年も前に山岳部の生徒と一緒にこの光景を一度見ましたが、頂上からスキーで滑って降りた仲間の一人は後になって、「あの体験を思い出すと、日常の細々した問題がとても小さく感じる。」と言ってくれました。
山の上から物を見ると、登ったことのない人に見えない物があり、意識が変わります。本当の山を例に取り上げて話しましたが、比喩的に言うと、皆様の人生にも様々な山があり、意識を高める経験をすると、それ以前の自分にはとても深刻に思えたことが、大したことのない、小さなことに思えることがたくさんあります。
山から下りて来たイエス様と、一緒にいたペトロ、ヨハネとヤコブは、前の日に山の上で次元の違う世界を体験しました。山の下には、あれこれと騒ぐ群衆に囲まれ、困り果てた様子でイエス様の帰り待つ他の弟子たちがいました。彼らは、たくさんの人たちの期待を受けながら、それに応えられないという、惨めな思いをしていました。
少し前に、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を授かった」はずの弟子たちは、助けを求めに来た親子の前で、無力な姿を晒していました。現状を知らされたイエス様はあきれた様子で言いました。「いつまでわたしは、あなた方と共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」簡単なことではないか。山の下で細々したことに目を奪われ、大局が見えなくなっていた弟子たちはイエス様のお叱りを受けました。
今日から定期試験が始まります。今、一番気にしているのは、テストで何点取れるかということだと思います。私も、皆様のこれまでの努力が得点という形で報われることを心から願っています。しかし、小学校、またはそれ以前から始まった、人として受けてきた教育を大局的に見ると、今回のテストで何点取れるかは、とても小さなことです。
教育は、人類が数千年単位で積み重ねてきた知識と技能と、神様から受けた啓示を次の世代に、凝縮した形で残す崇高な事業であり、私たちが飲み物や食べ物の確保、身の安全や子孫を残すことにしか関心がない、霊長類に終わらないように、先祖たちが真剣な思いで代々続けて来たことです。教育が上手く行くと、受けた側の人間は自然界、人間社会、文化的な遺産などについて目が開かれ、高められた意識を持つ不思議な存在になり、宇宙空間の中に生きることのすばらしさを知るようになります。
定期試験はそもそも、できる人とできない人を序列化するためにある物ではなく、この人間としての教育が上手く行っているかどうかを確認する一つの機会に過ぎません。これから始まる四日間が、真理の奥義を極め始めた自分との感動的な出会いになり、今日の聖書の箇所の最後に出て来る人たちと同じように、神の偉大さに心を打たれる体験につながることを願っています。
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