2018年6月25日 礼拝説教 「意識が変わると見える物が違う」

2018625日礼拝説教
「意識が変わると見える物が違う」

ルカによる福音書928節~36

28節             この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
29節             祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。
30節             見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。
31節             二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
32節             ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。
33節             その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。
34節             ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。
35節             すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。
36節             その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

 コンピュータ技術が進歩する中、研究者たちを手こずらせてきた問題が一つあります。視覚を通じてコンピュータに物を認識させようとするとなかなかうまく行きません。人間、ネコ、自転車などを認識するようにプログラムを組んでも、一つ一つの物に様々な違いがあり、同じ種類のものとして認識させるのはとても難しいことです。更に、一つのまとまった物としてではなく、関連性のない耳、しっぽ、ペダルなど、たまたま一緒に映っているものとして、バラバラに認識することが多いです。逆に、木やシマウマなどが所属する集合体に注目するあまり、個別の物として認識できなくなることがあります。

 成人男性の体の中に人間のDNAを持つ細胞が約30兆ありますが、更に人間のDNAを持たない微生物が40兆以上も人間の体に住み着いていると言われています。「私は人間です」と言うと、その何十兆もある細胞や微生物を指して言うのでしょうか。私たちは一個一個の細胞を意識しないで、一人の「人間」として自分を意識するのは何故でしょうか。そもそも「意識」とは何でしょうか。

 人の存在について考えると、当たり前のようで、実際はとても難しい問題がたくさんあります。最新の設備を誇る、最先端の研究機関でいくら調べても、人の心も、尊厳も、個人としての人権も探し出すことはできません。科学的に分析すると、人は他の生物から命をもらって栄養を接収し、呼吸し、排せつし、同じ活動をする生命体を身体の中から生み出すことがある、動く細胞の塊に過ぎません。 

人が人としての意識を持つようになるのは、科学的な観察によってではなく、科学を超えた、別な次元で人間だという意識があるからです。この意識があるから善悪の存在を知り、生きることにも、努力することにも意味があるという思いを持ちます。昔から世界各地に、更に高い次元の意識を得ようと願って書物を学んだり、瞑想したり、長時間祈ったり、断食したり、難行苦行をした人たちが大勢います。シベリアやアマゾンの地方に、幻覚作用を持つ薬草を使って意識の次元を高めようとする人たちもいます。

 このような人たちの体験を、単なる幻覚として理解するなら気に留める必要はないでしょう。しかし、人は太古の昔から、この人たちの言葉を聞き、暗記し、文書として残して参考にしてきました。それは人が単なる細胞の塊ではなく、痛みも喜びも感じ、自由な意思を持ち、言葉と行動について責任を問われる存在であり、科学的に解明できるものを超えた世界を根拠とする価値観を必要としてきたからです。

 エルサレムで人生の正念場を迎えようとしていたイエス様は、人混みを離れて一人で祈ることが多くなっていました。この際も、修行仲間として、ペトロ、ヨハネとヤコブを連れて山に登り、祈っていました。突然、弟子たちの目の前に、旧約聖書の主役とも言える二人、モーセとエリヤが現れ、二人と会話する、輝く白い服を着ているイエス様の姿が見えました。

モーセとエリヤと同列になっているイエス様の姿を見て喜んだペトロは驚いて意味不明な事を言い始めました。しかし、ペトロの言葉を打ち消すかのように、雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声がしました。気が付いたらモーセとエリヤの姿はなく、そこにいたのはいつもの姿に戻ったイエス様だけでした。

客観的に観察できるイエス様の外見が変わったのでしょうか。それとも、イエス様に接する、弟子たちの意識が変わったのでしょうか。いずれにせよ、この三人は今まで見たことのない、次元の違う物を体験し、後戻りできないほど人生観が変わりました。

周囲の人たちに見えない物が見えるようになるのは、必ずしも幸せを呼び込むことではありません。しかし、知らない方が幸せだと思って目をつぶるのが本当に正しい道でしょうか。仮に辛い思いをしても、意識を高め、物事の本質を知ろうとするのが、東奥義塾に三年間いる、一人一人の勤めではないでしょうか。

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