2018年6月18日 礼拝説教 「十字架を背負うこと」

2018618日礼拝説教
「十字架を背負うこと」

ルカによる福音書923節~27節

23節             それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
24節             自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
25節             人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。
26節             わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。
27節             確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

耐久歩行の疲れは取れましたでしょうか。最後まで歩き切った生徒の皆様の意志の強さと頑張り抜く根性を称えたいと思います。二年続けて雨による中断を体験した三年生が最後の機会となった今年、見事にゴールできたことによって、本当に良い思い出を作ることができたと思います。最後は声をかけられても反応する気力さえ失っていた生徒もいましたが、ゴールをした時、大半の生徒はとても嬉しそうにニコニコしていたし、元気よくハイタッチを求めて来る生徒もいました。

個人的な印象になりますが、卒業生に東奥義塾の思い出を聞くと、一番多く聞かれるのは耐久歩行の話です。不思議なことに、昔話をする人は、楽だったことについてほとんど何も言いません。楽しい思い出についてはいくらか話しますが、表情が最も生き生きするのは苦しかった事について話す時です。大変なことに挑戦してやり切ると、自分の力を信じる思いが深まり、次の挑戦に挑む気力が湧き、生きる喜びを感じます。

東京で過ごした学生時代は四年間、吉祥寺にある、ドイツ人宣教師が牧会する教会に通いました。その宣教師が司式する結婚式で話した一つの言葉が今になっても忘れられません。結婚の誓いをしようとする若いお二人を前にして、強いドイツなまりの日本語で言いました。「自分が幸せになろうと思って結婚する人は必ず不幸になります。」結婚の目的は幸せになる事だと思っていた私たちはその言葉に驚きましたが、今になってその真意が少しわかって来たような気がします。

幸せをゴールとして生きる人で、幸せを手に入れる人はほとんどいません。人生は失望や苦労や悲しみの連続で、やっとつかんだつもりの幸せでも、長続きする保証はなく、他人から幸せに見えても、不満がまったくない生活は送っている人は一人もいません。だからと言って、世の中に幸せがないのかと言えばそれも嘘になります。苦労を重ねても、自分の損得を考えないで、有意義なこと、人を喜ばせること、人の役に立つことに力を注ぐ人はある日、ふとした瞬間に「自分が幸せだ」ということに気が付くことがよくあります。

結婚に限らず、進学、就職、出産、新築、栄転など、お祝いの対象になることはすべて、何かの意味で新たな苦労の始まりを意味します。しかし、そのような苦労の一つ一つは、自ら責任を引き受けることにつながり、その責任を果たすことに、私たちは生き甲斐を見出し、幸せかどうかという問題とは別に、生きていて良かったという思いへと、私たちを導いてくれます。

イエス様が本当にメシアなら、このような方の弟子になった人たちは、大変な当たりくじを手にした幸せ者になるはずでした。しかし、大きな夢を掴んではしゃぐ弟子たちの姿を見たイエス様はここで手綱を引きました。「メシアだと言うなら、そう思ってもかまわない。しかし、私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従わなければならない。」
  
メシアであるイエス様はこれから、首都エルサレムに向かいます。エルサレムで大歓迎されますが、わずか五日間で状況が反転し、結末は逮捕、裁判、処刑へと進むことになります。冷静な状況分析ができていたイエス様に、最後まで自分に付いて来る弟子の結末が見えていました。

イエス様は軽い幸せを求める人ではなく、もっと次元の高い、優れた生き甲斐を求め、死ぬ覚悟で自ら責任を担い、重い十字架を背負って、ついて来る人を求めていました。今、ここにいる私たちにとって、十字架を背負って、イエス様について行くとは何を意味するのでしょうか。それぞれ、自分に当てはまる解答を探し出して生きて行くのが、私たちの人間としての勤めだと思います。

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