2018年3月9日 終業式 「先生、先生、おぼれそうです」

201839日 終業式
「先生、先生、おぼれそうです」

ルカによる福音書82225

22節  ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こ 
    う岸に渡ろう」と言われたので、船出した。
23節  渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き 
    降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。
24節  弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそう
    です」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りに
    なると、静まって凪になった。
25節  イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。
    弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。
    命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。

 パニックを起こしたことがありますか。大学一年生の時に初めて一人暮らしを体験しましたが、同居人がいないアパートで、初めて寝坊した時に起こしたパニックをよく覚えています。目を覚まして時計を見ると、あと十分で授業が始まることに気付きました。大きな遅刻になるとわかり、口元が泣く寸前の子供のように引きつり、過呼吸のような症状を起こしました。大学生にとって一、二度の遅刻は想定内ですが、誰にも訴えられないピンチに直面した私は一分以上、何もできずに立ち往生しました。

 意気地のない大学生だと思うかもしれませんが、山岳部の顧問だった頃、南八甲田の雪山で霧に合い、櫛ケ峰を登った帰りに稜線から下る場所を間違え、地図にはない、渡る術のない川が目の前に現れました。日没まであまり時間がなく、状況としてはかなり危険なものでした。四、五人の生徒も一緒にいたので、パニックを起こしても無理もない状況でした。しかしその時、生徒も私も至って冷静でした。八甲田の山に精通したベテランの先生が一緒にいたからです。大変そうな状況でしたが、その先生が特に慌てる様子もなかったので、大丈夫だろうという安心感がありました。

 雪山なのでもちろん登山道はありませんでしたが、どこにいるかを推測しながら、前に進みました。しかし、とうとう、ベテランの先生も限界だという表情になり、「ビバークするしかない。」と言いました。要するに、雪の中に穴を掘って野宿すると言うのです。装備がしっかりしていたので、一泊くらいは何とかなるとわかっていましたが、私は別なことを心配していました。足を怪我して、酸ヶ湯の近くで雪の上に建てたテントで待っている生徒が一人いました。私たちが戻らなければ、その生徒が警察に連絡をとって、遭難騒ぎになるかもしれないと思いました。

 「とにかく、あの山を越えてから判断しましょう。」と私は提案しました。リーダーの先生は黙って頷きましたが、精神的にかなり限界に来ている様子でした。右に寄って行けば簡単に登れる山なのに、スキーを脱いで直角に近い雪面を登山靴のつま先で蹴って登り始めようとしていました。生徒たちも異変に気付き、「先生、トップ代わった方がいいじゃない。」と助言しました。

それまで前を歩いていた先生が後ろに回り、トップが代わってから十分もしない内に広い雪原にでました。もう、川に落ちる危険性もないので、スキーで勢いよく雪原を超え、間もなく雪の壁で有名なゴールドラインに出ました。ここまで来ると、道沿いに戻ればよかったので、暗くなりかけていましたが、無事にキャンプ・サイトに着きました。

 その夜、鍋を囲みながら、その日の出来事について話し合いました。ベテランの先生は言いました。「いくら山を登った経験がある私でも、今日のようなコースは一人で歩けない。仲間の力があったから無事に帰って来られた。」「私たちは先生を頼りにしていたが、先生も私たちを頼りにしていたということですか。」「それはそうだよ。今回、初めて山に来たA君を含めて、仲間として皆を頼りにしている。」迷ったことに気が付いた時、このベテランの先生がいたからパニックを起こさず行動できたと思っていたので、心に染みるありがたい言葉でした。

 今日の聖書の箇所に戻りましょう。一日中、仕切りなしにやって来る群衆への対応にイエス様は疲れていました。夜になっても休ませてもらえる見通しがなかったので、日が沈みかけたころ、弟子たちに言いました。「向こう岸に渡ろう。」弟子たちと一緒にガリラヤ湖の岸につないである船に乗り込み、約13キロ先にある向こう岸、ゲラサ地方に向かいました。少しずつ暗くなり、弟子たちが船をこぐ音を聞きながら、船の後ろの方で枕に頭を置いていたイエス様は眠ってしまいました。

 しばらくすると湖に突風が吹き降ろし、船が水をかぶり、危険な状態になりました。弟子たちは集団パニックのような状態に陥って騒ぎ出しました。漁師出身の弟子もいたので、大工出身のイエス様を起こさなくても、自分たちで対応できたはずです。しかし、このような時に彼らはイエス様に目を向ける習慣を身に付けていました。どんなピンチに会ってもイエス様は動じない。いつも適切な言葉で反対者を黙らせ、不思議な力で問題を解決しました。今度も何とかしてくれるだろうと思っていたら、イエス様は何と、ぐっすり眠っていました。

 「先生、先生、おぼれそうです。」と叫ぶ弟子もいれば、「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか。」と責める弟子もいました。目を覚まして起き上がったイエス様は風と波に向かって「黙れ。静まれ。」と言いました。不思議なことにその瞬間、風が止んで波が静まり返りました。これを見た弟子たちはあっけに取られ、「いったいこの方はだれだろう。」と互いに問いかけました。

 本当は何が起きたのでしょうか。弟子たちは何年たってもこの出来事を忘れることなく、何度も話題にしたので、マタイ、マルコ、ルカの、三つの福音書にほぼ同じ話が載っています。あの時、イエス様は本当に風と波を制御したのだろうか。突風は突然やって来るが、通り過ぎるのも速いので、たまたまイエス様が起き上がった時に風が止んだのだろうか。あの「黙れ。静まれ。」という言葉は風や波にではなく、もしかしたら、理性を失って騒いでいる私たちに向けられたのだろうか。突風が過ぎた後のイエス様は「騒ぎすぎだよ。」と言わんばかりに「あなたがたの信仰はどこにあるのか。」と問いかけました。

 信仰とは何でしょうか。キリスト教世界の中で信仰はしばしば、一つの美徳として扱われます。信仰を根拠のない、とうてい信じられないことを盲目的に受け入れることだと思う人たちは、「信仰のどこが美徳なのよ」と言うことがあります。理性に反することを鵜呑みするのが信仰だということなら、私もこの意見に賛成するかもしれません。しかし、この物語は信仰を、それとは別なものとして描いていると思います。

 信仰のある人はまず、慌てふためきません。冷静さを失わないので、適切な判断ができます。絶望的な状況のなかでも希望を捨てることはありません。未知の世界に出ることをためらいません。集団のなかにこのような人がいると、周囲の人たちは頼りにして、リーダーとして認めます。事実、家庭であろうと、チームであろうと、会社であろうと、このような人がいないと危機を乗り越えることができません。進歩もできません。

 もちろん、この学校の教育の目標は、このような信仰を育み、より良い世界を作るリーダーを育てることです。しかし、風と波に向かって「黙れ。静まれ。」と言える信仰は一夜で育つものではなく、このようなリーダーは、いくつもの嵐を潜り抜けてから生まれます。あなたにとって、今の、この時が嵐かもしれないし、今のこの時、心の中で「先生、おぼれそうです。」と叫んでいるかもしれません。もしそうであるなら、今、小さな船に乗っていると想像して、心の中で祈ってください。「イエス様、私の船は沈みそうです。どうか、私と一緒にこの船に乗って、一緒にいてください。風と波に向かって『黙れ。静まれ。』と言ってください。」

こんな祈りをしたら効き目があると思いますか。新米教員として東奥義塾に就任して間もない頃、自動車に乗って駐車場に入り、そのまま校舎に入ると、今日もまた可愛い、やんちゃな生徒たちが数多くの試練を浴びせてくれると知っていたので、どうしても車から降りる気になれない時がありました。その頃、何度か祈ったのはこの祈りです。効き目はありましたか。いろいろなことがありましたが、今もここにいるので、何とかなったのでしょう。

 2017年度は終わろうとしています。来月から学年が変わって2018年度が始まります。勉強が一段と難しくなり、新しい挑戦と、新しい試練が待っています。しかし、四月からやってくる小さな嵐も、大きな嵐も、乗り越えられるように助ける存在として、始業式の日の東奥義塾は皆様の登校をお待ちしています。教員たちも、新しい試練を一つ一つ迎えるにあたって、頼りになる存在としてここにいます。楽しくて、思い出深い春休みを過ごしてください。新たに入学する一年生と一緒に、皆様と再び顔を合わせる事を楽しみにしています。この一年間は本当にお世話になりました。

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