2018年1月29日 礼拝説教 「大きな赦しが可能とするもの」

2018129日礼拝説教
「大きな赦しが可能とするもの」

ルカによる福音書739節~47

39節             イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
40節             そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
41節             イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
42節             二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
43節             シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
44節             そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
45節             あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
46節             あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
47節             だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

先週と同じ箇所ですが、前回省略した部分を読んでいただきました。新約聖書に登場する女性で、マグダラのマリアという人物がいます。イエスの母マリアとは別人です。今日の箇所のすぐ後に続く8章の初めに、十二人の弟子の他に 「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア…も一緒で…一行に奉仕していた。」と書いてあります。復活したイエス様を最初に目撃したのはこの女性で、昔から様々な根拠の薄い憶測を呼んだ方です。

紀元600前後のローマ・カトリック教会の教皇、グレゴリウス1世は、7章の終わりに出てくるこの罪深い女と、8章の初めに登場するマグダラのマリアが同一人物だと教え、長い間、定説になっていました。ハリウッド映画、「最後の誘惑」と「ダ・ヴィンチ・コード」のストーリーは、イエス様と男女関係があったという推測に基づいています。想像力を掻き立てる面白い推理ですが、どちらもフィクション作品なので、史実だと思わないでください。

ファリサイ派のシモンはイエス様を食事に招きましたが、尊敬すべきラビとしての迎え方ではありませんでした。埃っぽい道をサンダルのような履物で歩くので、当時の礼儀として、家に上がる前に足を洗う水を提供するのが常識でした。

更に丁寧なおもてなしをしようとするなら、顔にキスをして、頭にオリーブ油を塗ることになっていました。シモンは面白半分で、この新米の預言者をからかってやろうと思い、ごく当たり前の礼儀を省略しました。

その一方、入って来た女性は最高の敬意を払うつもりで、洗い終わったイエス様の足に、とても高価な香油を塗るつもりでした。食卓に着いているお客さんは、当時の習慣に従って足を後ろに伸ばし、横になって、体を肘で持ち上げながら食べていました。足元に近づいて見ると女性は驚きました。

イエス様の足には洗った様子がなく、埃だらけになっていました。このままでは香油を塗る訳にはいかないと悟った彼女は、込み上げて来る思いを抑え切れず、大粒の涙を流し始めました。気が付いたら、イエス様の汚い足が、涙でぬれていました。拭き取る物がなく、とっさに、女性にとって命より大事な長い髪を下ろし、涙でぬれた埃を髪の毛で拭き取り、イエス様の足に何度も口づけしてから香油を塗りました。

シモンはこの光景を見て強い嫌悪感を覚えました。「困ったものだ。ナザレのイエスを家に入れたら気が狂った売春婦までつれて来た。これでは我が家の評判にも傷がつく。」イエス様は気まずい雰囲気を察知して、例え話を用いて対応しました。「多くの罪を赦された証拠に、人は多くの愛を示す。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

どんな人の心にも、どんな民族の歴史にも、大なり小なり暗い部分があり、暗い過去があります。心理学の研究が特に盛んだった1960年代から1970年代、アメリカの大学で行われたミルグラム実験や、スタンフォード監獄実験は、人間の心理について恐ろしい発見をしました。今は違法になったこれらの実験が示したのは、人種、年齢、性別問わず、人間の大部分は特殊な環境に置くと、他の人の拷問または殺害への協力を拒まないという事実でした。

ローマの信徒への手紙に「人は皆罪を犯した。」と書いてありますが、皆、互いに傷つけあったり、極端な場合は殺し合ったりする可能性を秘めている人間です。私たちはどうすれば良いのでしょうか。

今日の話にはイエス様の、人類の共通問題に対する解決法が提示されていますが、それには二つの要素があります。一つは、人のせいにしないで真正直になり、自分の過去や現在、家族や民族の過去や現在の暗い部分にしっかりと向き合うことです。もう一つは、すべてを赦してくださる神様の声に耳を傾け、その赦しを受け入れ、自分の中にも人を赦す心を育てることです。大きな罪の告白と、大きな罪の赦しの組み合わせがあると、大きな愛が可能となり、大きな希望が生まれます。

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