2018年1月24日 礼拝説教 「罪深い女」

2018124日 礼拝説教
「罪深い女」

ルカによる福音書736節~39節、48節~50節

36節             さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
37節             この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
38節             後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
39節             イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。

(中略)

48節             そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
49節             同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。
50節             イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

「この町に一人の罪深い女がいた」。現代の言葉で言うと売春婦がいたということです。形や名称はいろいろと変わりますが、どの国の、どんな時代にも、このようにして生計を立てる人がいました。売春婦になるのが夢だと思う女の子はいません。娘にこのような仕事に就いて欲しいと思う親もいません。しかし、男性に性的な欲望があり、窮地に追い込まれ、他に抜け道がないと諦める女性がいる限り、この手の商売は姿を消しません。

日本で売春が公に行われていたのは、歴史的に考えるとつい最近のことでした。売春防止法が施行され、遊郭街が姿を消したのは戦争が終わってから13年後の1958年のことでした。都会の遊郭で働く女性の多くは、仲介ブローカーを通して身売りされた貧しい農家の娘たちでした。

「青森県農地改革史」によると大凶作があった1934年、県内から売られた若い女性の数は7083人に達し、正式な統計に載っている数だけでも、その頃、遊郭で働いている女性の数は全国で5万人を超え、利用客の延べ人数は一年で2,000万人を超えていました。

純心に、食べる物がない家族の犠牲になろうと、感情を殺して納得した娘もいれば、「きれいな着物を着て毎日白いご飯を食べられるようになるよ。」と説得されて送り出された娘もいました。しかし、当時の言葉を使ってはっきりと「あなたは女郎になるのよ」と言われた娘はほとんどいなかったはずです。

身売りを止めさせようとする自治体もありましたが、ブローカーの詐欺防止を名目に、間に入って関与していた村役場もありました。今も日本と韓国の間で解決していない慰安婦問題を理解する上で、当時のこの状況を心に留める必要があります。

客になる男性はサービスを提供する女性に対して感謝の思いもなければ、尊敬する気持ちもありません。理想的な男女関係を築こうとするなら、相手の女性に自分の一生を捧げ、授かった子供が立派な大人になるまで責任をもって育てる義務を背負います。

売春婦との付き合いなら、一日か二日分の稼ぎさえあれば、一夜限りで女性の体を自分の物にできます。女性にとって客は特別な存在ではなく、欲望を抑え切れず、目の前で恥を晒しに来た一連の男性の一人に過ぎません。このように出会った二人の間に、孤独な肉体関係があっても愛情はなく、密室で体が結ばれても、それ以外の場所で、絶対に顔を合わせないように細心の注意を払います。

旧約聖書に次の言葉があります。「あなたの娘に売春をさせて汚してはならない。あなたの土地をそれによって汚し、恥ずべきことで満たしてはならない。」イエス様を招待した人が所属していたファリサイ派は、何よりも自分たちの潔癖さを誇りにしていたので、欲望ではち切れそうになっても、このような女性に手を出すことはなかったはずです。

しかし、違う場面でイエス様は彼らに言いました。「実際に手を出したことがなくても、人様に見せられない心の中はどうだ。行動に移していないだけじゃないか。そんなあなたに人の批判ができるか。」

この女性は、イエス様のような人に会ったのは初めてでした。長い間、世の中に二種類の男性しかいないと思っていました。一方ではファリサイ派の人たちのように、ばい菌を嫌がるように自分を避けて通る男性。他方では客として自分の体を求めるが、用が済んだら恥ずかしそうに、すぐにいなくなる男性。

この二種類の男性にさんざん傷つけられたこの女性はある日イエス様と出会い、あることを直感しました。この人は私の体を求めていない。なのに、私を少しも軽蔑していない。心底、私のことを心にかけている。小さかった頃に親がいつくしんでくれたように、今の私も愛おしく思われている。この人の言葉に私を救う力がある。

女性が次にとった行動は周囲の人たちを驚かせました。結果的に、イエス様にまで疑いの目が向けられました。しかし、ファリサイ派の人たちの刺し通すような目を気にすることなく、イエス様は優しく語りかけました。「あなたの罪は赦された。安心して行きなさい。」

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