2018年1月12日 始業礼拝 「疑いと迷い」
2018年1月12日始業礼拝
「疑いと迷い」
ルカによる福音書7章18節~28節
19節
主のもとに送り、こう言わせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
20節
二人はイエスのもとに来て言った。「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」
21節
そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。
22節
それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、思い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
23節
わたしにつまずかない人は幸いである。」
24節
ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
25節
では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。
26節
では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。
27節
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。
28節
言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」
昨年の四月の最初の礼拝の主人公、バプテスマのヨハネを覚えていますか。当時は無名だったイエス様をユダヤ人に紹介した人物です。ヨハネはすでに有名になり、たくさんの弟子を集めていました。しかし、声を大にして、本物は自分ではない、神の国を実現させるのはナザレのイエスだと宣言しました。
イエス様のキャリアが軌道に乗ろうとしていたその矢先、ヨハネは逮捕されました。理由は殿様ヘロデの不倫スキャンダルを面と向かって非難したからです。捕らわれの身となったヨハネは、泳げない人も沈まないことで有名な死海の東側の畔にあるマカイルスの要塞に閉じ込められました。二年たってからヘロデの不倫相手の要求に従って首をはねられました。お盆にのせられて運ばれて来るヨハネの生首は、多くの西洋画家が手掛けたテーマの一つで、上野駅の近くにある国立西洋美術館にもこの場面を描いた絵が一枚あります。
ヨハネは決して精神力の弱い人ではありませんでした。イエス様は「女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。」と絶賛しました。しかし、これ以上ない褒め言葉をいただいたこの立派な人物が、自由を奪われ、外界から遮断され、いつ命を奪われても不思議ではない状況に置かれると心が揺れ始めました。
聞くところによるとイエス様の周囲は宴会騒ぎのようになっている。死人がよみがえったとか、ローマ人に頼まれてテレパシーを使ったとか、安息日なんか大したことないと言ったとか、様々な噂が耳に入りました。荒れ野で一緒に断食した、あの禁欲的で真面目な青年とは違うイメージが伝わって来ました。人気が高まるのも良いが、神の国がいつになったら実現するのだろうか。そして、何よりも、いつになったらヘロデを倒してこの地下牢から自分を救い出したくれるのだろうか。
修行中に荒れ野で聞こえてきたあの声は何だったんだろう。ナザレのイエスを見た時に感じたあのときめきは何だったんだろう。神の国の実現が間近だと思わせたあの確信は何だったんだろう。暗い地下牢で、昼も夜も堅い壁に冷たい鉄格子と向き合うヨハネの心は日に日にすさんで行きました。預言者になるんじゃなかった。祭司だったお父さんの跡を普通に継げば良かった。在りもしない夢を皆に持たせるんじゃなかった。殿様のヘロデの不倫なんか放っておけば良かった。何よりもあのナザレのイエスをそこまで褒め上げた自分がバカだった。孤独の中で、ヨハネはこのようにして自分を追い詰めました。
そこで、ナザレのイエスに鞍替えすることなく、自分のそばを離れなかった二人の忠実な弟子にメッセージを託しました。「あの人の所に行って聞いてくれ。来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
マカイルスの要塞の外で新しい空気が吹き荒れ、すべてが変わろうとしていました。目の見えない人が見えるようになり、足の不自由な人が歩けるようになり、病のせいで不潔の極みと見られ、村八分にされ、絶対に治らないと言われた人たちが完治し、昔の仲間の輪に戻っていました。耳の聞こえない人が聞こえるようになり、死人が生き返り、貧困に苦しんで絶望している人たちが、新たな希望に心を弾ませて元気になっていました。目撃さえすればヨハネにだって分かる。そう確信したイエス様は、この光景を伝えて欲しいという強い願いを込めて二人の弟子を地下牢にいるヨハネの下に送り返しました。
一般的な高校生にはたくさんの夢があります。何か良いことがあったり、新しい考えに刺激を受けたり、憧れの人に出会ったり、感動的な体験を味わったりすると、目の前に開けていく人生がすべてバラ色に見えることが少なくありません。しかし、その一方、本当の自分を探し求める旅が始まったばかりなので、自分に力があるのかないのか、異性にモテるのかモテないのか、性格が良いのか悪いのか、将来の見通しが明るいのか暗いのかなど思い悩み、心は毎日、ひどい時は毎時間、狂った時計の振り子のように揺れ動きます。
人生の中で、輝く思い出が最も詰まっていた時期がいつだったのかと聞かれたら、私は迷わずに大学に通った四年間だったと言えます。しかし、入学する前の一年は辛かったです。勉強が大変だったとか、受験のプレッシャーに負けそうになったという意味ではありません。人生の中で一番楽しい四年間がまさに始まろうとしていたのに、人生そのものに悲観していました。
よく分からないが、これからの人生がうまく行くはずがないし、つまらなそう。親にレールを敷かれ、逃げられない運命を背負わされて窒息しそう。自分の力を過信して天才かもしれないと思う日もあるが、次の日に恥をかいて自分がどうしようもないバカだと思ってしまう。微笑みのすてきな女の子に話しかけられ、有頂天になってもしかしたら自分がモテるようになったかもしれないと思い、調子に乗って次の日は無視されて自己嫌悪に陥る。
ビルの屋上に上がるのが好きで、上から見下ろし、飛び降りたら下にあるコンクリートにあたるまでどれくらいの時間がかかるだろうと考えました。コンクリートに当たったら即死になるから痛くてもすぐに楽になるだろうと思いました。しかし、落ちて行く間に何を考え、その恐怖に耐えられるだろうか。飛び降りてから下に到達するまでに後悔したら悲惨な最期になるだろう。色々と悩みながら考えました。
自分の命を絶つ具体的な行動に出ることはなかったですが、今思うと思春期の嵐の真っ最中でした。大人になった自分が同じ屋上に立ってそこにいる少年に話しかけられたなら、次のように言ったと思います。「もうすぐ、新しい学年が始まってあなたの人生という、とてつもないストーリーの本幕が始まる。今の生活に閉じ込められたあなたには見えないかもしれないが、数え切れないほどの冒険と、素敵な人との出会いが待っている。あなた以外の人には無理な生き様がある。その生き様を皆に見せてやれ。命を与えた神が、人生を立派に生き抜く力をきっと与えてくれる。」
「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である。」何のことでしょうか。いくら偉大な人でも、ヨハネの時代は終わろうとしていました。イエス様の周辺では、目の見えない人が見えるようになる時代、足の不自由な人が歩けるようになる時代、つまり神の国の時代が動き出していました。最も小さな者も、過去の人たちの実績を踏み台にして立ち、そのはるか上に行ける時代が始まっていました。
疑いと迷いが多いのは青春時代の避けられない要素の一つです。しかし、21世紀に育つ、ここにいる生徒の皆様は、20世紀に育った私たちの世代に想像もできなった能力と可能性を手に入れました。目の前にあるあの壁はもうすぐ崩れます。鮮やかな新しい世界がもうすぐ見えてきます。2018年が皆様にとって、すべての意味で輝かしい一年になることを願います。
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