2017年4月6日 入学式 「あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。」

201746日 入学式
「あの方はここにはおられない。
復活なさったのだ。」

ルカによる福音書2418

1節          週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
2節          見ると、石が墓のわきに転がしてあり、
3節          中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
4節          そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
5節          婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
6節          あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
7節          人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
8節          そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。

教会歴で言うと、新年度が始まるこの時期は復活祭、別名、イースターの季節です。今年は、416日に各地の教会でイースター記念礼拝が行われます。太陽暦ではなく陰暦で日付が決まるので、クリスマスと違って毎年違った日に行われます。新入生の皆さまはこれからの三年間、キリスト教について多くのことを学ぶことになりますが、この入学式の場で何よりも深く心に刻んでいただきたいことがあります。それはキリスト教が復活の信仰だということです。

人は一度死ぬと二度と戻って来ません。これは歴代の哲学者や宗教家が、死者への執着をやめようとしない民衆に教え諭してきた事です。今日の聖書の箇所が書かれた時代の人たちも同じように考えていました。墓に向かうこの女性たちは絶望していました。わずか数日前まで、イエス様が立ち上げて下さる「神の国」というすばらしい時代が始まると、信じて疑いませんでした。しかし、それを実現させるはずだった、大好きなイエス様は死んでしまいました。悲しみにさいなまれ、何とか気持ちに整理を付けようと思って、この女性たちは墓でのお勤めに向かいました。この時代のこの地方では、いつの、どこにでもあるごくありふれた光景でした。

しかし、次に起きたことは世界の歴史を大きく変えるものでした。大きな石で閉ざされていたはずの墓は開いていました。中に入っていたはずの遺体はどこにもありませんでした。しかも、二人の光輝く衣を着た人たちがその場に立って、全くあり得ないことを言っていました。「なぜ、生きておられる方を死者の中で探すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。」

 復活信仰はキリスト教の最も肝心な部分であり、この出来事が本当に起きたと信じて疑わない信徒たちが日本にも、世界各国にも大勢います。しかし、このような話とは無関係だと思う方々に対しても、キリストの復活には大事なメッセージが秘められています。

「絶体絶命の事態に見えても、決して終わりではない。例え死を目前にしても、今は嘆き悲しむ時ではない。思い描いていたように実現しなかったかとしても、今は絶望する時ではない。今は目に映らなくても、一歩先に進むと無数の選択肢がある。夢が実現しなかったかもしれない。しかし、その夢をはるかに凌ぐ、夢にも思わなかった人生があなたを待っている。信じる者は必ず復活の命に預かる。」

これは「諦めが肝心」とか、「人生にはそもそも意味がない」という考えとは正反対の思想であり、どんな境遇にいても、すべての人生に意味があり、希望があるということを私たちに教えくれます。

今から十五、六年前のこと、新入生の皆さまは死ぬかと思われるような体験をしました。幸せに暮らしいた、お母さんのおなかという安心で暖かい場所から無理やり押し出され、生きて成長していくために必要な養分を提供してくれるへその緒から切り離され、冷たい外気にさらされ、暗闇しか知らなかった皆様の目にギラギラした光が差し込みました。もうすべてが終わったという恐怖と絶望のあまり、オギャーという泣き声を上げました。しかし、それは終わりではなく、正に、新しい命の始まりでした。

その瞬間から、仮にお医者さんがお母さんのおなかに超音波を当てても、そこにはもはや、胎児の姿はありませんでした。この時にはもう、自分の足で探検することになる、想像を絶する世界に出て行き、その鮮やかな輝きに心を震わせていました。新しい、冒険に満ちた人生が始まっていました。

新入生がつい先日まで通っていた中学校に行っても、そこに皆様の姿はありません。もう卒業して新しく高校生になったので、そこに行って探しても無駄です。中学生として抱いていた夢を、この東奥義塾で実現する新入生も多くいると思います。しかし、むしろ、今まで夢にも思ったことのない、鮮やかに輝く別な世界に出逢い、想像してみたこともない自分を発見することになる可能性が高いと思います。

ここ数年の間、日本の教育会の中で「グローバル人材の育成」という言葉が飛び交うようになりました。しかし、今からちょうど140年前、江戸時代の末期に生まれた5名の東奥義塾の生徒は、住み慣れた環境の枠を飛び越えて、死を覚悟の上で、遠い国に向かって海を渡りました。日本の他の地域から外国に渡った他校出身の生徒のほとんどは、現地の大学の本科に入る前に予科で勉強しなければなりませんでした。しかし、この東奥義塾の生徒たちは弘前という、当時の日本では僻地と言われる所で、既にグローバル人材として育っていました。予科での学びを受ける必要もなく、アメリカの大学の本科にまっすぐに進んだ彼らの中から、世界の大国を相手に国家を代表し、見事な活躍をみせる人材が生まれました。

新入生の皆様。ご入学、おめでとうございます。弘前のさくらはまだ咲いていませんが、皆様は私たちの心に春を運んでくれる、新しい命の象徴です。東奥義塾の生徒として本日、お迎えできたことを、私たちは心から喜んでいます。

保護者の皆様。本当におめでとうございます。大事なご子息、ご息女の教育を私たちにお委ね下さったことを心から感謝申し上げます。神様からいただいた宝として大事にお守りすることをお約束いたします。三年後に卒業する日の立派なお姿を夢見ながら、私たちと手を取り合って下さるよう、お願い申し上げます。

御来賓の皆様。ご多用のなか、新一年生の門出にご参列いただき、誠にありがとうございます。これからの三年間、彼ら、彼女らの成長の過程を暖かく見守り、機会ある度にお励ましの言葉を下さるよう、切にお願い申し上げます。

十年後、新入生が大人として迎える社会は、すでに大人になった私たちの想像を絶するほどに変化していることと思います。これまで、私たちが常識だと思っていたことの多くは全く変わっていることでしょう。しかし、ここにいる新入生は、決して変わることのない真理をしっかりと心に刻み、押し迫る時代に対応できるスキルを見事に手に握り、三年後にこのキャンパスから力強く飛び立つことと固く信じ、式辞といたします。

201746
東奥義塾高等学校
塾長 コルドウェル ジョン

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