2024年4月8日 始業礼拝 「諦めないでしがみつく心の祈り」

 202448日 始業礼拝

「諦めないでしがみつく心の祈り」

サムエル記上 11節~11

1節                  エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに一人の男がいた。名をエルカナといい、その家系をさかのぼると、エロハム、エリフ、トフ、エフライム人のツフに至る。

2節                  エルカナには二人の妻があった。一人はハンナ、もう一人はペニナで、ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった。

3節                  エルカナは毎年自分の町からシロに上り、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。シロには、エリの二人の息子ホフニとピネハスがおり、祭司として主に仕えていた。

4節                  いけにえをささげる日には、エルカナは妻ペニナとその息子たち、娘たちにそれぞれの分け前を与え、

5節                  ハンナには一人分を与えた。彼はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。 

6節                  彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。

7節                  毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ。今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった。

8節                  夫エルカナはハンナに言った。「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」

9節                  さて、シロでのいけにえの食事が終わり、ハンナは立ち上がった。祭司エリは主の神殿の柱に近い席に着いていた。

10節             ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。

11節             そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」

 先週、金曜日の入学式で、山鹿元次郎とサムエル保育園の話をしました。山鹿元次郎は初代東奥義塾の生徒で、1875年にイング宣教師から洗礼を受けた若者の一人でした。後には弘前教会の三代目の牧師になり、一旦は門を閉ざした東奥義塾の復活を願って努力し、102年前に最出発した東奥義塾の理事長になりました。しかし、皆様のこの大先輩にはその他に、青森県内で最初の保育施設を開業するという功績もありました。

111年前の1913年、天候不順でお米がほとんど取れなかった県内の農家は生活に困り、食いつなぐために仕事を求め、方々に出かけて行きました。かまってもらえない子供が大勢いる中、入学前の児童が事故死したという知らせに心を痛めた山鹿牧師は、当時はだれも思いつかなかった、小学校前の子供を預かる保育施設を作り、世間を驚かせました。その時に始めた事業は、鷹匠町と城西にあるサムエルとダビデ保育園として今も続き、その経営を行っているのは今も、山鹿牧師のご子孫です。

とは言っても、保育園の名前についているサムエルとダビデとは、一体何のことでしょうか。昨年度は、一年かけてモーセの話をしました。イスラエル人がエジプトでの奴隷生活から解放され、約束の国に向かって荒野の旅をする物語でした。約束の国に着いてから数百年がたち、堕落した弱い国になってしまったイスラエルを改革させ、旧約聖書の三大人物の一人、ダビデ王を王位に就かせたのは預言者サムエルでした。今日はサムエルの母親のハンナから話を始め、今年度の月曜日の礼拝は、ダビデ王の話につながって行くように進めたいと思います。

 読む価値のある物語は必ずと言っても良いほど、何かの問題から話が始まります。主人公がどのようにしてその問題を克服するかに物語の面白味があり、何事もなく、平穏に暮らした人の話には誰も興味を示しません。昨年度の物語は、奴隷生活に苦しむイスラエル民族の話から始まりましたが、今日の物語は、世間ではだれも気に留めなかった、ある女性の、極めて個人的の悩みから始まります。

 現代の世の中では、結婚して子供をつくらなくても、充実した生き方ができると主張する人たちはたくさんいます。皆様のご両親がそのような考えを持たなかったのは、とても幸せなことだったと思いますが、少しでも古い時代に戻ると、どの国を見ても、子供が授からないことは大変不幸なことだと思われ、これがハンナの悩みでした。

 一家が絶えないように、最初の奥さんとの間に子供が産まれなければ、二人目の奥さんを迎えるのが当たり前のこととされていました。子供を産んだ奥さんの方が大事にされ、最初の奥さんが冷たくされることもよくありましたが、ハンナの場合は逆でした。夫のエルカナの愛情を受け続けたのは、後から家に入って来たペニナではなく、ハンナの方でした。そのことに嫉妬したペニナは、自分に子供がいることをネタに、ことあるごとにハンナに嫌がらせをしました。

 エルカナはひどく落ち込むハンナに気を遣って言いました。「元気を出せよ。あなたには私がいるではないか。子供を持つことより幸せなことでしょう。」無理がある説得のように感じますが、ハンナももちろん納得しませんでした。聖書の他の箇所に「子供を与えてくださらなければ、わたしは死にます。」と訴えるラケルという女性がいます。ハンナはラケルに負けることなく、シロという町にある神様を礼拝する神殿の前に立ち、激しく泣きながら、自分の悩みを神様にぶつけて言いました。

 「万軍の主よ、・・・男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」ハンナはついに、自分の希望が叶うことにだけ執着しても埒が明かないと悟り、覚悟を決めて神様との取引に挑みました。男の子が産まれたら、自分の子供と思わないで神様に捧げ、当時の習慣に従ってその証拠として子供の髪の毛を一切、切らないと約束しました。子供を側に置くという、親としての幸せではなく、弱く、腐敗した国になったイスラエルを立ち直らせるためなら、自分も生まれて来る子供も犠牲になろうと、覚悟を決めました。

 ここにいて、同じ制服を着ている皆様は、外見からは誰とも変わらないように見えても、ハンナと同じように、自分にしかわからない、個人的な事情や深い悩みがあり、それぞれ皆、違います。これまでは十数年程度の人生であっても、心や記憶の見えない部分を覗くと、自分にしかわからない苦労もあれば頑張りもあり、そのすべてを明かすなら、「よくここまで生きて来たね」と言って精一杯褒めなければならない事情が、一人ひとりにあります。

 そのような皆様に言いたいのは、神殿の前で激しく泣いていたハンナを、自分に置き換えて欲しいということです。皆様も毎朝、この礼拝堂で自分をはるかに超えた存在の前に立ち、自分以外の誰にもわからない心の悩みを、そのお方に訴えることができます。説教の内容が心に響かないことがあっても、授業に行く前にステンドグラスからの光に照らされ、パイプオルガンの音色を聞きながら、それぞれの思いを神様に投げかけて欲しいです。毎朝続けている内に、必ず何かが変わってきます。

対照的に、悩みは特にないが、バカにされるのが怖くて誰にも言えない、大きな夢を持っている生徒もにいると思います。世界に広がって行きそうな、空よりも高い夢を持っていれば、次のことを心に留めてください。何一つ存在しなかった時に、今ある広大な宇宙を想像し、それを実現させたお方がここにいます。

命を授けた人間の子が、同じように大きな夢を抱いていることをほほえましく思えても、バカにすることは決してありません。だれにも聞こえない、小さな声でも良いので、毎朝、ここでその夢を語り続けてください。最初は、自分の満足や欲望を目的とする、自己中心的な夢であっても、次第に自分の存在を超えた、周囲にいる人や人類の幸せを包み込む、スケールの大きい物に成長して行くことでしょう。

 一年以内に卒業して東奥義塾を去ることになっている三年生は、少しばかりの焦りを感じているかもしれません。時間がまだあると思っていたのに、気が付いたら学業生活の総決算がすぐそこに見えて来ました。いくつもの扉が目の前に迫る中、イエス様の言葉を心に留めてください。「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」たたくべき門がどれなのか、はっきりわかるように祈りましょう。扉の先に何があるかがわかるお方の導きを信じて進みましょう。これまで培った才能が、みごと花を咲かせる道がそこに待っています。大きく成長しながら前に進み、力を合わせて2024年度を最高の年にしましょう。

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