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2020年9月28日 礼拝説教 「針の穴を通るような決断」

  2020 年 9 月 28 日 礼拝説教 「針の孔を通るような決断」 ルカによる福音書 18 章 18 ~ 27 節 18節              ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。 19節              イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 20節              『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」 21節              すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。 22節              これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 23節              しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。 24節              イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。 25節              金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 26節              これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、 27節              イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。   エルサレムに「針の孔」と呼ばれる小さな門があったという説があります。暗くなると大きい門が閉じられ、夜中に出入しなければならない人たちのため、身をかがめないと通れない、とても小さな門だったそうです。膝をつけば通れるが、「なかなか言うことを聞かない、性質が頑固なラクダには無理」というのが当時の人たち常識でした。  もう一説によると、そのような門があったという証拠がなく、ペルシャで不可能を表す「針の孔にゾウを通す」という諺に由来するとされています。 いずれにせよ、イエス様のこの言葉は当時の常識を覆すものでした。財産が多いのは神様の祝福

2020年9月14日 礼拝説教 「か弱い者の存在価値」

  2020 年 9 月 14 日 礼拝説教 「か弱い者の存在価値」 ルカによる福音書 18 章 15 ~17節 15節              イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。 16節              しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 17節              はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 新約聖書時代の世界を支配していたローマ人の残酷さはよく知られていますが、生まれてくる子供に対しても、冷酷極まりない民族でした。ローマの男性は 20 代の半ば頃まで結婚しませんでした。しかし、女性は思春期を過ぎるとすぐに結婚させられ、 10 歳以上も年上の夫の権限は、妻が生む子供の生殺与奪の権を含む、絶対的なものでした。 赤ん坊を取り上げたローマの助産師は、父親の前に地面の上に新生児を寝かせました。父親がかがんで赤ん坊を抱き上げて初めて、その家の子供として認められました。父親がいらないと言って顔を背けるなら、赤ん坊は外に放り出され、だれかに拾われない限り、そのまま死んでしまいました。   ユダヤ教徒はローマ人のこの習慣を強く否定していましたが、ユダヤの子供の命も決して安泰だったとは言えません。世界のどこの歴史を見ても、赤ん坊が大人になるまで生き延びるのが当たり前になったのは、かなり最近のことです。 150 年くらいまでのデータを見ると、世界の子供の半分は思春期を迎えることなく命を失い、赤ん坊の 4 人に 1 人は 1 歳になる前に死にました。日本の子供の生存率も決して高くはなかったですが、 19 世紀までのドイツでは、大人になるまで生き延びる子供は全体の 4 割しかいませんでした。 病気を癒して欲しいと願って、多くの人たちはイエス様に押し寄せましたが、その中に赤ん坊にオッパイを吸わせている母親たちもいました。子供たちに病気があったとは書いていませんが、高校生とあまり変わらない年齢だったこの母親たちは必死でした。今は元気でも、いつ病気になって死ぬかわからない我が子の命の保証を求めていました

2020年9月7日 礼拝説教 「許される罪人」

                              2020 年 9 月 7 日 礼拝説教 「許される罪人」 ルカによる福音書 18 章 9 ~ 14 節 9節                   自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 10節              「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 11節              ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 12節              わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 13節              ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 14節              言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」   どこの国に行っても同じなのは、幼児期に、謝るのがとても苦手な子供が多いということです。小さい子供が謝ると、「負けた」という気持ちになり、謝るように促されても、なかなか口を開こうとしません。最後に根負けして「ごめんなさい」と言っても、悔しい思いに襲われ、大泣きすることがあります。成長するに従って心が広くなり、同じ空間に生活することは大なり小なり、互いに迷惑をかけることだと気付き、率先して謝罪できる気持ちが育ちます。そうなると周りから、「大人になった」と言われるようになります。 非を認めるには、それなりに勇気と決断力がいります。日本に来る外国人は以前、この国の文化のルールとして、気まずいことがあったら、躊躇せずに「すみません」と言って謝るように指導されました。あまりしつこく連発すると、返って誠意を感じなくなる場合もありますが、互いに「すみません」という言葉を素直に交換できると、生活上のトラブルのほとんどが速やかに解決されます。 これは日本人の生活の知恵の一部とも言える、日