Posts

Showing posts from November, 2021

2021年11月29日 礼拝説教 「マリアの賛歌」

  2021 年 1 1 月 29 日 礼拝説教 「 マリアの賛歌 」 ルカによる福音書 1 章 46 ~ 56 節 46節            そこで、マリアは言った。 47節            「わたしの魂は主をあがめ、 48節            わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。 今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、 49節              力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました から。 その御名は尊く、 50節            その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。 51節            主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、 52節            権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、 53節            飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。 54節            その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、 55節            わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」 56節            マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。 「起て、飢えたる者よ。今ぞ日は近し。醒めよ、我が同胞。暁は来ぬ。暴虐の鎖断つ日。旗は血に燃えて、海を隔てつ我等、腕結びゆく。」 1871 年のパリ・コミューンに参加したウジェーヌ・ポティエが作詞した革命の歌、「インターナショナル」の日本語訳の最初の部分です。世界中の労働者革命を代表するようになったこの歌は、今日読んだマリアの賛歌からヒントを得ています。マリアは勝ち誇るシンデレラのように歌います。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」 しかし、この二つの歌に大きな違いがあります。インターナショナルの原文の 2 番は次のようになっています。「救い主も、神も、皇帝もいない。労働者たちよ、自分たちの手

2021年11月22日 礼拝説教 「信仰を支える仲間」

  2021 年 1 1 月 22 日 礼拝説教 「 信仰を支える仲間 」 ルカによる福音書 1 章 39 ~ 45 節 39節              そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 40節              そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 41節              マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、 42節              声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 43節              わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 44節              あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 45節              主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」 恋をしたことのない人と、恋愛の話をしても気持ちは伝わりません。生まれながら、目が不自由な方に、好きな色の話をするのはとても難しいことです。好みが違う人と、好きなジャンルの音楽の話をしても、あまり意味がありません。宗教体験についても同じことが言えます。神様に触れられたことのない人に信仰の話をすると、変な目で見られます。新約聖書の中でパウロはこのように言っています。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。」 あり得ないことを聞かされたザカリアとマリア。二人とも「どうしてそんなことを信じられましょうか。」という疑問を抱きました。ザカリアに与えられた証拠は罰のようなもので、子供が生まれるまで口が利かないと告げられました。対照的にマリアは子供を産がめなかった親戚、エリサベトの妊娠について聞かされました。 聖書に書いていませんが教会の伝統によると、エリサベトが住んでいたのはエルサレムの郊外にあるエン・カレムという村でした。マリアの村のナザレから、弘前と盛岡を結ぶくらいの距離でしたが、バスも電車もない時代にマリアは躊躇することなく出かけました。あまりにも信じられない体験をしたマリアの近く に相

2021年11月15日 礼拝説教 「神にできないことは何一つない」

  2021 年 1 1 月 15 日 礼拝説教 「 神にできないことは何一つない 」 ルカによる福音書 1 章 26 ~ 37 節 26節              六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 27節              ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。 28節              天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 29節              マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。 30節              すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 31節              あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 32節              その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 33節              彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 34節              マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 35節              天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 36節              あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 37節              神にできないことは何一つない。」 38節              マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。 キリスト教系の学校には、カトリック系とプロテスタント系があります。見分ける方法の一つは、マリア像があるかないかです。あるのはカトリック系で、ないのはプロテスタント系です。どちらの教会に行っても「主の祈り」を唱えます

2021年11月8日 礼拝説教 「わたしの言葉を信じなかった」

2021 年 1 1 月 8 日 礼拝説教 「 わたしの言葉を信じなかった 」 ルカによる福音書 1 章 18 ~ 25 節 18節              そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」 19節              天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。 20節              あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」 21節              民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。 22節              ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。 23節              やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。 24節              その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。 25節              「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」 「何ンにつけ一応は、絶望的観測をするのが癖です。わかりもしない望みで、明日をのぞいてみたいりしないのが癖です。夢もあります、欲もあります、かなうはずなんてないと思います。夢に破れて、あてにはずれて、泣いてばかりじゃいやになります。雨が好きです。雨が好きです。あした天気になれ。」 大ヒットした「悪女」と同じ 1981 年にリリースされた中島みゆきのシングル、「あした天気になれ」の一節です。天才的なシンガーソングライターですが、中島みゆきの歌詞の多くは、心の奥までひっかき回すシビアなものです。歌っている本人が本当に希望しているのは晴でしょうか、雨でしょうか。かなわない夢を抱くことに疲れ、本心とは逆のことを言って強がっているようにも聞こえますが、このような気分は誰にも覚えがあると思います。